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 誰しも何十年か仕事を続けていれば、波瀾万丈(はらんばんじょう)あるもの。国立競技場の設計に携わったことなどで国民に広く知られ、いまやメディアに引っ張りだこの建築家・隈研吾氏にも、東京でほとんど仕事ができない「空白の10年」があった。

 特別インタビュー後編では、1990年代に隈氏の転機となった木材との出会い、2000年代に手掛けた建築を中心として隈氏に語ってもらった。インタビューは、日経アーキテクチュア前編集長で現在は画文家の宮沢洋氏が聞き手となり、書籍「隈研吾建築図鑑」(2021年5月11日発刊)を執筆するに当たって実施した。前後編のうち、後編の抜粋と動画を紹介する。

隈さんの転機となった建築の1つが、村井正誠(まさなり)記念美術館(04年完成)だと私は思っています。中国に建てた竹屋(02年完成)の話にも通じると思います。この建築を見て、隈さんが「ボロい材料が好きだ」と言っているのが、「カッコつけている」のではなく、本当なんだと分かりました。(以下、聞き手は全て宮沢 洋氏)

隈 研吾氏:あれは、ボロさがいいでしょう。僕も大好き。

2004年に完成した「村井正誠(まさなり)記念美術館」。日本の抽象絵画の草分け・村井正誠のための美術館。予約制となっている(資料:「隈研吾建築図鑑」より抜粋。絵や文は宮沢洋氏による)
2004年に完成した「村井正誠(まさなり)記念美術館」。日本の抽象絵画の草分け・村井正誠のための美術館。予約制となっている(資料:「隈研吾建築図鑑」より抜粋。絵や文は宮沢洋氏による)
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ぼろぼろの材料が空間の質を高めていると思いました。時間の経過みたいなものが空間に取り込まれている感じが独特です。雑誌で見たときには、真ん中にあるアトリエの保存部が何の意味なんだろうと思ったのですが、行ってみると、確かにじわっと存在感があります。ランドスケープも含めて、本当にいい建築だなと。

隈さんはその後、リノベーションを数多く手掛けていますが、あれが1つの起点になっているのではないでしょうか。

 保存系のプロジェクトでは、あれが初めの頃でしたよね。村井美術館は、古い家がある状態を見に行ったときに、「自分の生まれた家とそっくりだ」と思ったんですよ。村井先生が暮らしていた家ですね。

 戦前の木造で、戦後の木造とはちょっと違うんです。手づくり感がある。数寄屋建築みたいに“いやらしい手づくり感”ではなくて、お金がなくて手づくりするしかなかった感じ。それが自分が育った家と似ていた。ああ、懐かしいなと。

 うちの父親と村井先生は年齢があまり変わらなかったと思うんだけど、部屋の中の物の置き方とか飾り方も似ていた。夫人が依頼主で、彼女は他の建築家にも案をつくってもらっていたんだけれど、どうも夫のイメージと違うと。僕が見たのは、古い村井邸のプランをそっくり新しくつくる案だった。

なるほど、記憶を伝えるにはそういう方法もありそうですね。

美術館のアプローチ(資料:「隈研吾建築図鑑」より抜粋。絵や文は宮沢洋氏による)
美術館のアプローチ(資料:「隈研吾建築図鑑」より抜粋。絵や文は宮沢洋氏による)
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 それは、頭から入った保存だと思ったんだよね。僕は、この家の質感を引き継ぎたくて、そのためには、古材を徹底的に主役にしたらいいんじゃないかと考えた。古材を使うといっても、床の間の柱なんかは材料に限りがある。床下の板とか、天井の野地板を見てみたら、まっすぐじゃないんですよ。今みたいにちゃんと製材していないので。これはいいなあと。

外壁のルーバーに使った板ですね、あれは本当に微妙にまっすぐじゃない。そこがいいですよね。

 あの形は今、つくろうと思ったら大変だよね。これを主役に使ったら、村井先生の家の質感が残せるだろうと。それも、ある種のリアリティーだよね。

アトリエを残すというのは、要望があったんですか。

 それも僕から提案したと記憶しています。村井先生は物が捨てられない人だったらしくて、家中が物であふれていた。アトリエの中もぎりぎり絵を描けるくらいのスペースが残っているだけだった。この雰囲気は、空間として絶対に残したいと思ったんです。