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 量子コンピューターの急速な発展によって、現在の通信で一般的に使われている暗号システムが一瞬で解かれてしまう危険性が顕在化してきた。国家機密など機微な情報を守る技術として世界で量子暗号通信の開発競争が激化している。規模で世界を圧倒する中国の脅威に、世界各国が対抗する構図が見えてきた。

 「中国が作りあげた量子暗号通信網は、 “スプートニクショック”のような出来事だ」――。科学イノベーションに関する調査・分析を担うシンクタンクである研究開発戦略センター(CRDS)フェローの眞子隆志氏はこう力を込める。

 いわゆる「スプートニクショック」とは、ソビエト社会主義共和国連邦(ソ連)が1957年10月、人類初の人工衛星「スプートニク1号」の打ち上げに成功し、宇宙やミサイル開発のリーダーと自負していた米国が自信を打ち砕かれ、軍事的脅威を受けた状況を示す。中国が作り上げた量子暗号通信網は、「量子時代のスプートニクショック」ともいうべき脅威を、世界各国に与えている。一体何が脅威なのか。

中国が量子コンピューターでも破られない全長4600kmの量子暗号通信網を稼働
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中国が量子コンピューターでも破られない全長4600kmの量子暗号通信網を稼働
現代版「万里の長城」ともいうべき世界最大の量子暗号ネットワークだ。すでに中国・新華社通信や中国工商銀行、中国・国家電網などが利用しているとされる。(出所:科学誌Nature掲載論文「An integrated space-to-ground quantum communication network over 4,600 kilometres」の内容を基に日経クロステック作成)

 「量子暗号通信でやりとりされる情報は、大規模な量子コンピューターが実現したとしても物理法則上、絶対に暗号を解読できない。そんな外から盗聴しようがないネットワークを中国は長大な規模で実現してしまった。(軍事的に対立関係にある)米国などにとって、これは安全保障上のバランスが崩れたことを意味する」とCRDSシステム・情報科学技術ユニット フェローの嶋田義皓氏は説明する。

サイバー空間の「万里の長城」

 中国が作り上げた驚異の量子暗号通信網は、2021年1月に科学誌Natureに掲載された中国科学技術大学(USTC)らのグループによる論文で全貌が明らかになった。見えてきたのは「サイバー空間の“万里の長城”」ともいうべき、外敵から完璧に防御する巨大な暗号ネットワークの姿だ。

 上海市から北京市までの2000kmのネットワーク、さらに上海市や合肥市、済南市、北京市といった中核都市内には網の目のように量子暗号通信網が張り巡らされている。

 地上のみならず、宇宙空間にも量子暗号通信網を築く。中国は2016年、世界初の量子暗号通信衛星「墨子号」の打ち上げに成功。この量子暗号通信衛星を介して、中国・南山区と中国・興隆県を結ぶ2600kmの暗号ネットワークも稼働している。

 地上と衛星を含めた全長は実に4600kmだ。この暗号ネットワークを中国国内では既に、中国・新華社通信や中国工商銀行、中国・国家電網などが機密情報を送受信のために活用しているとされる。

光の最小単位を暗号鍵共有に活用

 量子暗号通信は、正式には量子鍵配送(QKD:Quantum Key Distribution)と呼ばれる技術だ。データを暗号化するための「鍵」情報を、量子力学の原理に基づいて送受信する。

量子暗号通信の仕組み
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量子暗号通信の仕組み
光の最小単位である光子を暗号鍵の共有に使う。送信機と受信機を光ファイバーにて1対1で結ぶ構成が基本だ。光子を分割できない、コピーできないという性質を使って盗聴を検出し、情報理論的安全性を担保する。(図:NECの資料を基に日経クロステック作成)

 世界で実証が進む代表的な量子暗号通信が「BB84」と呼ばれる方式だ。光ファイバーの両端に送信機と受信機を1対1で配置し、暗号鍵を光の最小単位である単一光子に乗せて送る。

 光は粒子に加えて波としての性質も持つ。光子の特定の振動方向に対して「1」もしくは「0」の値を割り当て、複数の光子をビット列として扱うことで暗号鍵を作り、送信機と受信機の間で共有する仕組みだ。

 なお単一光子を使ってやりとりするのは、あくまでデータを暗号化する暗号鍵だけ。実際のデータの送受信は通常の通信路を使う。