人工知能(AI)活用の準備段階で、実現可能性を確かめる「概念実証(PoC)」と呼ぶ工程がある。「PoC貧乏」「PoC止まり」という言葉に象徴されるように、PoCから先に進まないケースが少なくない。名古屋大学でソフトウエアエンジニアリングを研究する筆者がAI活用に取り組む企業の協力を得て調査したところ、AIのスピーディーな業務適用を妨げる3つの壁が浮かび上がった。今回は3つめの「保守の壁」を取り上げる。この壁について、まずは架空のストーリーで紹介しよう。
製造業のDX(デジタルトランスフォーメーション)部門の担当者であるAさんは、工場での生産の効率化、製品の品質向上を目的とし、自社の生産システムに機械学習モデルを導入できないかを検討した。導入できそうな部分を見つけるだけでも簡単ではなく、既存業務の変更が必要になり調整に時間がかかったが、生産設備の消耗部品の交換時期について予測を試行することになった。3カ月の試行期間で問題がなければ、実運用となる予定である。
試行期間が始まってしばらくの間は順調であったが、試行を初めて1カ月が経過し様相が変わった。「予測が当たらなくなってきている」という旨の連絡を、業務の現場担当者から受けたのだ。
連絡してきたのはBさんだ。消耗部品の監視や交換作業を担当しており、この取り組みに生産設備の保守担当者として協力してくれている。Bさんによると「設備の自己診断機能で緊急停止したので消耗部品を交換しなければ。これまでの1カ月間、こういうことはなかった」という。
Aさんは定時後に生産設備がある場所に足を運び、Bさんの協力のもと確かめることにした。生産設備は繁忙期でないときは定時で停止する。交換時期の予測に失敗し、既に交換しなければならない状態になっている消耗部品をBさんに取り付けてもらい、カメラで撮影した画像をテスト用の環境で予測した。すると機械学習モデルは「まだ消耗していない」と間違って判定した。
画像を過去のサンプルと比較してみると、カメラの位置が当初よりずれていることが分かった。カメラを設置するとき生産設備に直接取り付けていたため、生産設備の振動により少しずつズレたようだ。これにより、照明の光の当たり方が変わってエッジ(輪郭)の検出に失敗したようだ。
カメラの取り付け具を元の角度に戻し、再びカメラで撮影した画像を機械学習モデルに与えたところ、「交換が必要である」と正しく判定できた。そこで取り付け具を生産設備から独立させて設置できるよう手配することにした。
Aさんは他にも影響が出そうな原因がないか生産設備の周りを見渡した。すると消耗部品に当たる太陽光の変化があることに気づいた。
生産設備は屋内に設置されているが、建物の高い位置に窓があり、日中はそこから太陽光が入る。この季節、太陽光は直接当たっておらず、照明を当てているので昼夜の差はあまり受けない。しかし冬になると、日中は強い光が当たる可能性がありそうだ。しかも、太陽光の一部をカメラが遮り、消耗部品にカメラの陰ができるかもしれない。
Aさんは、太陽光もエッジの検出に影響を与えるかもしれないと考えた。その防止策として、太陽光を遮るひさしを付けることにした。
Bさんにこうした状況を伝えると、「そういえば、消耗部品は年単位で工場が変わることがあるみたいで、そのときには色味が変わるようです。機械学習モデルはそれに対応できるものなんですか?」と聞かれた。
Aさんは回答に窮した。そこまで考えていなかったからだ。Bさんと話した後、カメラの寿命も考えなければならないこと、カメラに接続している画像を解析するためのパソコンやそれらをつなぐネットワークにトラブルが起こる可能性を十分に考えていないことに気づいた。