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 『闘病した医師からの提言 iPadがあなたの生活をより良くする』は重度のギラン・バレー症候群で生死の境をさまよい、現在も機能回復に向けたリハビリを続ける東京慈恵会医科大学の高尾洋之医師が自身の体験を基につづった書だ。といっても闘病記の類ではなく、アップルのタブレット端末「iPad」を中心としたIT機器やサービスの使いこなしが詳細に説明されている。高尾医師自身が患者として生活する中で、他者とのコミュニケーションや生活の質向上にiPadをフル活用して見つけたノウハウをぎっしり詰め込んだユニークな本である。この本の発行にあたり日経BOOKプラスは、元アップルで現在はシリコンバレーに在住する外村仁さんに依頼した「世界最速書評:人を幸せにするテクノロジーが詰まった本」を掲載した。今回はアップルがアクセシビリティに長年取り組んできた背景などについて、外村さんにつづってもらった。(技術プロダクツユニットクロスメディア編集部)

 前回、日経BOOKプラスの書評がきっかけで『闘病した医師からの提言 iPadがあなたの生活をより良くする』の著者である東京慈恵会医科大学准教授の高尾洋之医師と、35年ぶりに奇跡の再会を果たしたお話をしました。書評を引き受けたときはまったく気付いてなかったのですが、高尾先生は35年前、私の学生時代にピンチヒッターで家庭教師に伺った「教え子」だったのです。

 会ってその壮絶な体験を直接聞き、彼の使命感と意志の強さに改めて感銘を受けました。突然ギラン・バレー症候群に罹患し、体も指も動かせなくなり、人工呼吸器に1年以上つながったこと。その後奇跡的に意識は回復したものの、ほぼ体が動かせない状態が続く中で、iPadなどIT機器の「アクセシビリティ」機能を使って周囲の人に意思を伝えたり、コミュニケーションを取ったりする活用法を文字通り必死で学んだこと。患者の一人としてまた医師として、この体験を本にして後の人に残さねばと決意したと聞きました。

 「アクセシビリティ」機能の中には、体が不自由になった未来の自分だけでなく、特に不自由を感じていない今の自分にも役に立つ機能がたくさん入っています。『闘病した医師からの提言 iPadがあなたの生活をより良くする』を読むと、アクセシビリティ機能を自分が元気な間に体験しておくことが、将来自分や自分の家族・友人になにか不自由が起きたときに、大きく役立つと分かります。

35年ぶりに高尾先生の自宅を訪れ、感動の再会を果たした私と高尾先生
35年ぶりに高尾先生の自宅を訪れ、感動の再会を果たした私と高尾先生
(写真:著者提供)
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30年以上前からアクセシビリティに取り組んできたアップル

 ではなぜiPadやiPhoneはアクセシビリティの機能を備えているのでしょうか。実は極めて変化の早いIT業界にあって、アップルは30年以上もの間、アクセシビリティに取り組んできた特異な企業なのです。アップルといえばiPhone、iPadを思い浮かべるという人が主流になった今となってはただの昔話に聞こえるかもしれませんが、単なる技術革新や時代の要請とは異なり、会社の根源たる思想に関わることだと思うので、元アップル社員だから語れる昔話を少しだけ書かせてください。

 話は私がアップルの日本法人に入社した1992年ごろに遡ります。私はアップルの「The Computer for the Rest of Us(僕ら以外のためのコンピューター)」という考え方が大好きで、教育市場開発という部署に応募し、採用されました。

 アップルの主力商品である「Macintosh(Mac)」のパソコン市場でのシェアは当時、世界で10%強といったところ。正直、「主流」とは言い難い状況でした。アップルの日本法人もギリギリ以下のリソースで運営されており、今から考えればかなりブラックな組織でした。そしてせっかく入った教育市場開発は、入社後3カ月で解散し、私はキャリアチェンジを強いられるのですが、その話は別の機会でお話ししましょう。

 今では想像できないかもしれませんが、当時はMacやNECのパソコン「PC-98」シリーズなど、パソコンごとに専用の雑誌が発行されていました。Mac専門誌も今より多数あり、日経BPの「日経MAC」や「Macworld」「MACLIFE」など10を超える雑誌が発行されていました。