1964年東京五輪のために建てられた国立代々木競技場、そして2020年の東京大会に向けて建てられた東京アクアティクスセンター。50年以上の隔たりはあっても、設計の理念は共通している。父である丹下健三氏(1913~2005年)の事務所業務を引き継ぎ、現在は丹下都市建築設計(東京・港)の会長を務める丹下憲孝氏、および健三氏の薫陶を受けた役員陣3人に聞いた。
丹下憲孝氏は1985年に丹下健三+都市・建築設計研究所に入所。2003年に丹下都市建築設計を設立して代表に就任し、16年に会長に就任している。大組織ではないアトリエ型の事務所であるため、「スポーツ施設のスペシャリストが所内にいるわけではない。しかし、ノウハウは持っているつもりだ」と語る。
「むしろ、私たちの姿勢としては常に様々なスペシャリストと組み、どんな仕事にも対応してきた。遡れば、コラボレーションという言葉が日本で使われていなかった頃から、父の丹下健三は設計という行為自体が共同作業なのだと主張し、実践していた」
1964年竣工の国立代々木競技場は、丹下健三+都市・建築設計研究所と東京大学の坪井善勝氏(1907~1990年)の研究室(構造)や、早稲田大学の井上宇市氏(1918~2009年)の研究室(設備)、大滝設備事務所(同)などとの協働で成立した建築だ。
そして、今回の「東京2020」大会に向けた国立代々木競技場の改修設計では久米設計と共同で、東京アクアティクスセンターの基本設計などでは山下設計に協力する形でプロジェクトに関わった。後者には、構造設計などのスペシャリストであるArup(アラップ)も招いている。
他に大規模スポーツ施設の実績として、1989年竣工の「シンガポール・インドア・スタジアム」がある。憲孝氏が父の事務所に入所した直後のプロジェクトだ。そこで丹下健三氏は、川口衞氏(1932~2019年、川口衞構造設計事務所)と協働した。坪井善勝氏の下で国立代々木競技場の構造設計に参画し、今回の改修の基になる耐震診断に至るまで立ち会ってきたのが川口氏だ。
「私たち自身、国立代々木競技場には完成してから50年以上、継続的に関わってきた。改修などの様々なアップグレードや、アスベストの除去工事まで多岐にわたる。そうした中で先ごろ(21年5月)、国の重要文化財に“最年少”の建築として指定される見込みだと明らかになった。さらに現在、建築関係の諸先輩が世界文化遺産にしようと動いてくださっている。大変にありがたいことだ」
要点は、アスリートと観客が一体になる空間
国立代々木競技場の改修設計は、事務所内では木村知弘副社長が担当した。同副社長はこう語る。
「文化的な価値がある建築として、建設当初から評価され続けてきた。五輪を契機に、よりバリアフリー化や耐震化を図るという中で、いかに建築の価値を保全しながら新たな機能や役割を持たせるか。クライアントや久米設計と意識を共有し、設計上の創意工夫を重ねた」
憲孝氏によれば、「1964年の東京五輪は私が小学生、木村が幼稚園の頃に開催されたものだ。今の事務所の体制からすると、数代前という感覚だ」と言う。「建設時に関わった方々は既にみな離れてしまっているが、改修設計に際し、OBの方々にはヒアリングを行ってきた。当時どういう考え方で設計に臨んだのかを再確認し、設計に反映させていった」
原点に遡ると、「父による競技場のコンセプトの要点は、アスリートと観客が一体になる空間、というものだった」。
「アスリートは良い結果を得るために自分を鼓舞し、観客はその姿を見て応援する。そんなふうにアスリートと観客、さらに観客同士がエネルギーを与え合う空間をつくる必要がある。代々木では、そうした目的で当時まだ珍しい吊(つ)り構造の大屋根を架け、無柱の大空間を生み出している」
「当時の精神を守りながら、現在の五輪の設計基準に合わせる必要があった。視覚的なプロポーションを含め、崩してはいけない原形を見極め、今後長きにわたって使っていけるように新しいファンクションを持たせる。両方うまくバランスを取りながら設計するのは、実は大変に苦労した部分だ」
これまで改修設計を進める過程で、大屋根を吊るメインケーブルの検分なども実施した。「木村副社長、そして石野(靖博)社長と共に現場内を歩いた。ありがたいことにコンディションは保たれていた。当時の建設に関わった方々はずいぶん頑張ってくださったんだなと実感した」と振り返る。