国立代々木競技場に元のまま残っていないものの1つが、水泳場の飛び込み台だ。丹下健三氏(1913~2005年)に撤去を「説得」する役を引き受けたのが、息子である丹下憲孝氏、現在の丹下都市建築設計会長だった。「東京2020」大会のための最新水泳場でその飛び込み台の意匠を参照したのは、憲孝氏にとっては「父へのオマージュ」という意味があった。
「東京2020」大会のための競技会場として、丹下都市建築設計は、山下設計に協力する形で東京アクアティクスセンターの基本設計に携わった。東京都が、新規恒久施設として東京・江東の辰巳に建設したものだ。2014~15年が基本設計期間で、事務所内では中山勝貴副社長執行役員(設計統括)が担当した。
大会後にレガシーとして使われ続け、“日本の水泳の聖地”になる建築──という目標を関係者間で共有して進めた。大会のために1万5000席を用意し、閉幕後に4階部分の仮設客席を撤去する。後利用の際には、約5000席を有する水泳場として運営する計画となっている。
「我々のオリンピック関連の仕事としては、2008年開催の北京大会を前に、コンペに参加して選手村を提案している。残念ながら丹下案は実現とはならなかったが、当時、担当した石野(靖博・現社長)と共に強く意識していたのは、あくまでも私たちはオリンピックのためだけの施設をつくっているわけではないということだった」
「オリンピックというのは通過点にすぎず、最終形のものではない。だから競技会場に関しては1つの建物だけれど、2つの建物をつくっているような部分がある」と憲孝氏は改めて強調する。
東京アクアティクスセンターの設計過程では当初、建設時に地上からリフトアップした大屋根を、閉幕後に後利用のために途中まで下ろすという案があった。これは最終的に実現はしなかった。
「後利用の段階の客席数に見合うように空間のボリュームを縮め、一体感を強める。同時に、維持管理費の節約に貢献させる考え方だった。構造設計を担当したArup(アラップ)の多大な尽力により、既に人々がなじみ始めているはずの外観にはあまり影響を与えず、空間を最適化させるような建築を提案した」
原点である代々木の水泳場の設計理念にならう
未来に残る姿を大切にする。といっても、五輪・パラリンピック開催時の体験を軽視しているわけではない。例えば、北京オリンピック選手村の提案時には、訪れる各国選手団をユーザーとして重視した。
「残念ながら予選で敗退した選手やチームというのは観光などはせず、そのまま帰国してしまうこともある。だとしたら選手村に滞在している間に、その国や街──北京オリンピックだったら中国や北京を感じてもらいたい。当時、建物だけでなく、建物と建物の間の庭などにも中国的なスケール感やエレメントをデザインしようと試みた」
「国立代々木競技場の場合は、アイコニックな構造美によって日本らしさを広く一般に認めていただいた。今回の東京アクアティクスセンターに関しては、まず表層的なインプレッション(印象)によって日本的な要素を感じてもらえるように努めた。そこで外装には、竹林や障子のイメージを織り込んでいる。また、縁側的な空間なども設けている」
さらに、原点である代々木の水泳場にならい、「集まった観客とアスリートが一体となり、エネルギーを与え合う。それによって良い結果を出せるような競技場にする、という思想も受け継いでいる」と憲孝氏は語る。12年のロンドン大会の際に建設された水泳場を視察し、改めて重視しようと決めた要素だった。
「ロンドンの水泳場はもちろん、大会後のレガシーありきで計画されている建築だ。しかし、五輪に合わせた巨大さが残るため、対面の観客席の様子があまり分からない。どちらが良い悪いではないが、父から教わったのは『観客の皆さんがお互いを見ることのできる空間』なので、それは大切にしたかった」
「コロナ禍が深刻化した結果、今回の東京大会では客席に座る人がいなくなってしまった。一体感を体験してもらうことができないので寂しい気持ちはあるが、安全に開催するためには無観客にする他なかったと感じている。後利用の際に開かれる大会などの際に、設計に携わった関係者の思いが伝わればと考えている」