「視線入力AF(自動焦点)を搭載しない開発日程を出してみてくれないか」。2020年春。突然の相談に、新型フルサイズ(35mmセンサー)ミラーレスカメラ「EOS R3」開発責任者の清田真人(キヤノンイメージコミュニケーション事業本部部長)は頭を抱えた。政府が発令した「緊急事態宣言」下、21年夏に開催がずれた東京五輪・パラリンピックでの試験投入に向けて奮闘を続けてきた。ここにきての大幅な設計変更に対応できるのか。清田ら開発陣は岐路に立たされる。(本文は敬称略)
開発に時間を要していた視線入力AFとは、ファインダーをのぞく撮影者の視線をセンサーで検知し、視線の向く先にAFの測距点(ピントを合わせるための枠)を移動する技術だ。被写体が画角の中に複数ある場合、どの対象物にAFを合わせるかカメラが判断に迷うことがある。それに対して、撮影者の意図を視線の向きでカメラに伝えて的確なAFを促す。
視線入力AFはキヤノンにとって「往年の技術」。1992年発売のフィルム一眼レフカメラ「EOS5 QD」に始まり、その後は数機種に搭載を広げたが、デジタル一眼レフカメラへの移行に伴って搭載を見送るようになっていた。その間、約20年。清田が責任者として開発中のミラーレスカメラのEOS R3では、画角のほぼ全域に測距点を配置できるようにしたため、視線入力AFの活躍の場面は多くなる。開発陣は一致団結して同技術の復活を目指していた。
「引き下がれない。何としても搭載してみせる」
特に清田は並々ならぬ思いを持っていた。近年「保守的」と思われることが増えていたキヤノンのイメージを打破するための一手として、視線入力AFへの挑戦は必須と考えていた。さらに、ミラーレスカメラ市場で先行するソニーにはない機能である。市場シェアの首位奪取に向けて是が非でも載せたい。
開発陣のムードも気がかりだった。一致団結して進めてきた視線入力AFの復活であるが、ここにきて仕様を落とすことは開発陣全体の士気を下げることにつながりかねない。特に、視線入力AFの搭載はフィルムカメラ時代をよく知らない若手技術者らからの賛同も多く、皆それぞれが実現に向けて奮闘していた。そんな思いをむだにはできない。
清田らは視線入力AFを搭載できるように多方面に働きかけ、同時に日程の組み直しを急いだ。通常のカメラ開発なら、納得のいく機能や品質を追求するために日程を数カ月遅らせることもある。しかしながら、EOS R3は2021年夏の東京五輪での試験投入が決まっている。こればかりは動かせない。
「新たな日程案で進めても間に合うかは五分五分です」
「それでもやろう。意地を見せよう」
本当に間に合うのか。正直、清田ら開発陣に焦りや不安はあったが、それをはるかに上回っていたのがカメラ技術者としてのプライドであった。EOS R3はミラーレスカメラの現ラインアップで最高位となる高性能モデル。決して妥協はしたくない。この思いが清田らを突き動かし、完成に向けて一歩ずつ歩みを進めていく。
赤外光で視線を推定
EOS R3で復活を目指した視線入力AFの機構は、大きく[1]8個の赤外LED、[2]EVF(電子ビューファインダー)パネル、[3]視線センサー、で構成する。さらに、8個の赤外LEDとEVFパネルの間には、接眼レンズや赤外光を反射する光路分割プリズムを組み込んでいる。
ミラーレスカメラではまず、レンズを通してカメラ内部に入った光をそのままCMOS(相補型金属酸化膜半導体)センサーで映像に変換し、ファインダー内のEVFパネルに表示する。撮影者はこの映像を確認しながら構図を決め、被写体の様子をうかがいつつタイミングを合わせてシャッターを切る。
この間、撮影者の眼球にはEVFパネルの映像が映っていることになる。そこで、ファインダーのアイピース窓(のぞき窓)のふちに計8個搭載する赤外LEDを利用して、撮影者の眼球を赤外光で照らす。すると、角膜での反射光がEVFパネルの左側部に搭載した小さな視線センサーに映る。
この画像を解析して赤外光の進む位置を特定すれば、撮影者がファインダー内のどこに視線を向けているのか瞬時に推定できる。あとは推定した視線の動きに合わせてAF測距点の位置を制御すればよい。
仕組みはできていたが、その機構の大きさが清田ら開発陣を悩ませていた。設計当初の3次元CAD(コンピューターによる設計)図面で確認した際、ファインダー部分が大きく突き出る格好をしていた。このままでは小型化や軽量化というミラーレスカメラの優位性を発揮できず、顧客が求める仕上がりにはならない。