全3234文字

 カーボンニュートラル(温暖化ガス排出量実質ゼロ)の実現に向けて投入が進む電気自動車(EV)。この巨大な新車需要を狙い、ブリヂストンが攻めに出る。EVでの採用実績がある環境タイヤ技術を2030年までに全乗用車タイヤの9割まで拡大。急速なEVシフトに対応する。そんな同社が手掛けるEVタイヤの原点は、13年投入のドイツBMW「i3」向けタイヤだ。当時、開発の舞台裏では元F1タイヤ技術者の熱き奮闘があった。(本文は敬称略)

ブリヂストンのEVタイヤを装着するドイツBMW「i3」
ブリヂストンのEVタイヤを装着するドイツBMW「i3」
大径・幅狭の低燃費タイヤ技術「ologic(オロジック)」を適用した「ECOPIA EP500 ologic」。ブリヂストンの桑山勲(現在、次世代技術開発第1部上席研究主幹)が中心となって開発した。技術の詳細は後述する。BMW i3(初代)は2013年11月に発売。(出所:BMW)
[画像のクリックで拡大表示]

 「世界最高のレーシング用タイヤを開発してみせる」

 08年夏、長らくの欧州勤務から帰国の途に就いた桑山勲(現在、次世代技術開発第1部上席研究主幹)はこう意気込んでいた。

 桑山は、日本でF1タイヤ開発を行った後に、欧州でスーパースポーツカーのタイヤ連成技術開発に携わってきた「レースタイヤエンジニア」である。イタリアFerrari(フェラーリ)との共同研究を現地で担い、同国の大学院にてタイヤを生かすアクティブサスペンション領域の研究で「博士(工学)」を取得した人物だ。

 帰国後は、F1など超高性能車両の運動性能の研究に携わりながら最先端の高性能タイヤの開発を担うつもりでいた。しかし――。

F1撤退の衝撃

 「桑山君。これからはF1以外の領域を担当してくれないか」

 ある日の昼下がり、ブリヂストン研究開発(R&D)の総本山、技術センター(東京都小平市)の会議室で、当時の上司が桑山にこう持ち掛けた。レースタイヤエンジニアとして一層の活躍を目指していた桑山はたまらず聞き返す。

 「F1から撤退するということですか」
 「そうだ。当社は手を引くことにした」

 F1タイヤは「ワンメイク」と呼ぶ1社独占の供給体制を採用している。レースに参加する車両の接地性能をそろえることで、ドライバーの技量による優越をより顕著化する狙いである。ブリヂストンは入札により07~10年までの供給を勝ち取っていたが、11年以降はこの入札に参加せず、事実上の撤退の意向を固めていた。

 同社がF1に参入した目的は、欧州におけるブランドの知名度や存在感の向上である。長年の活動を通して一定の地位確立に成功した。そう上層部が判断したことがF1撤退の主な理由といえる。

 また、自動車業界の技術潮流も移り変わっていた。それまで、自動車関連の学会は運動性能を「花形」としており、タイヤ各社もグリップ性能の向上など高性能化の研究開発が中心であった。しかしながら、08年を境に燃費性能の向上や低コスト化の追求などに流れが変化していく。これでは、先端技術の「走る実験室」ともいえるF1から得られる恩恵は薄くなる。

 さらに、08年9月には米投資銀行のLehman Brothers(リーマン・ブラザーズ)が経営破綻。世界的な景気の落ち込み、いわゆる「リーマン・ショック」を引き起こしていた。世界経済への負の影響は甚大であり、ブリヂストンも事業戦略の見直しを余儀なくされた。

 同社は09年に「緊急対応」と銘打ち、[1]生産調整、[2]投資圧縮、[3]固定費削減、を強く推進していった。このうち、固定費削減の項目には「モータースポーツ活動費用の効率化と削減」が明文化されていた。

 「これからどうすれば……」

 所属企業の決めた方針転換とはいえ、桑山にとって長年没頭してきたF1タイヤからの撤退はそう簡単に受け入れられるものではない。それも、これからはレースタイヤエンジニアとは違った業務を任されようとしている。桑山は葛藤に苦しむ。

 このままで本当に良いのか、自分がやりたかった研究開発とは何なのか。数日間、自問自答を続けた桑山であったが、ここで腐ることはなかった。もともと負けず嫌いの性格である。環境の変化をむしろ利用しながら、自らの手で危機を好機に変えてやろうと腹を決めた。ここからF1タイヤの経験を生かせる道を模索していく中で、桑山の心中には新技術への期待が徐々に膨らんでいく。

 実際、F1以外のタイヤの研究開発は新鮮なものだった。検討を進める中で、桑山が目を付けたのが環境対応車だった。

 08年当時、日本ではハイブリッド車(HEV)の車種展開は拡大基調にあったものの、電気のみで走るEVはごく少数にとどまっていた。一方で、桑山が赴任していた欧州ではEVが注目を集め始めており、何らかのきっかけによって爆発的に急増する可能性を秘めていた。

 「EVタイヤを視野に挑戦する価値は十分にある」

 桑山はこう決意して動き出した。