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裁判に負けなかったのに手を引いたNEC、戦い続けていれば…

 NECはもともと独自のロジック半導体技術を持っていましたが、1970年代後半からは米インテル(Intel)の8086プロセッサーと互換性があるマイクロプロセッサー製品を造り始め、やがて本家インテルより性能が優れる製品を出すようになります。その代表作が「V30」で、大ヒットしました。

 するとNECもインテルから著作権侵害で提訴され法廷闘争になります。こちらの裁判ではNECの著作権侵害は認められなかったのですが、NECは懲りたのでしょうか。その後インテル互換のチップは造ろうとしなくなります。

 当時は設計力でも、工場の微細加工技術でも、資本力でもNECの方がインテルよりはるかに上だっと僕は思います。インテルとの法廷闘争を何度も戦い抜いて、今や互角に戦える半導体メーカーになった米アドバンスト・マイクロ・デバイセズ(AMD)の姿を見ると、裁判に負けなかったのに手を引いてしまったNECの決断はもったいなかったなあと思います。もし戦い続けていれば、今ごろNECも有力なロジック半導体のメーカーになっていたかもしれません。

 独自OSのTRONプロジェクトが走り出したのも1980年代半ばです。産学官の組織がTRON専用プロセッサーのアーキテクチャーを設計し、日立が中心となって日本の半導体大手が独自のTRONチップを開発しました。こちらは成功しませんでしたが…。

 とにかくあの頃の日本の電機業界には世界で戦える独自プロセッサーを開発する力がありました。そのうち1つでも長期的に花開くものに育っていれば、日本の電機産業では今とは全く違う風景が見られたのではないでしょうか。(談)

【用語解説】

ロジック半導体 スマートフォン向けSoCやパソコン用CPUなど、演算機能を担うように設計された半導体。高性能な最終製品ほど採用するロジック半導体の微細化による性能向上やコストダウンの効果が見込めるため、最先端の製造プロセスを開発・適用する主戦場となっている。

CMOS Complementary Metal Oxide Semiconductor(相補性金属酸化膜半導体)。P型とN型のMOSFET(金属酸化膜電界効果トランジスタ)を並列につないで回路を構成する。入力電圧によって、PとNで流れる電流が打ち消し合うため電流が流れず、消費電力を抑えられる。これ以前にメインフレームのプロセッサーなどに使われていたバイポーラトランジスタの回路に比べて、消費電力と発熱が少ない、集積度を上げやすい、回路が設計しやすい、などのメリットがある。マイクロプロセッサーやDRAMなどの現在主流の半導体に広く使われている。

SuperH 日立製作所が開発していたマイコン。RISC(Reduced Instruction Set Computer=縮小命令セットコンピューター)型の32ビットマイコンとして企画され、1992年11月に第1号の「SH-1」を発売した。消費電力当たりの性能の高さが評価されて採用が広がり、1994年発表の「SH-2」が同年発売のゲーム機「セガサターン」に採用されたほか、携帯情報機器や携帯電話機、自動車や産業機器などに幅広く採用されていた。その後、日立が三菱電機と合弁で設立したルネサステクノロジ(現ルネサスエレクトロニクス)に継承された。

8086プロセッサー 米インテル(Intel)が1978年に発表した16ビット・マイクロプロセッサー。その後継プロセッサーも改良を加えながら命令セットなどの基本設計(アーキテクチャー)を踏襲したため、これらを「x86アーキテクチャー」と総称する。x86アーキテクチャーのマイクロプロセッサーは、米IBMの「PC/AT」やその互換機、NECの「PC-9800」シリーズなどのパソコンに幅広く採用され、結果としてパソコン向けマイクロプロセッサーの代名詞となり、今日のインテルの繁栄の基礎を築いた。

TRONプロジェクト 1984年に始まった組み込み機器向け独自OSを中核とする情報システムの開発プロジェクトの総称。当時、東京大学助手であった坂村健氏が構想した。当初は組み込み機器で標準的に使える国産リアルタイムOSの開発を志向して始まったが、半導体、電機の国内大手メーカーの参画や国の支援などで次第に国策プロジェクト的な様相を帯びた。TRON OSの実行に最適化したプロセッサーや教育向けパソコンの開発も行われた。

次回の「坂本さんに聞いてみた」

坂本 幸雄(さかもと・ゆきお)氏
ウィンコンサルタント代表・東京理科大学客員教授
坂本 幸雄(さかもと・ゆきお)氏  1970年日本体育大学体育学部卒。高校の体育教師を目指していたが採用がかなわず、日本テキサス・インスツルメンツ(TI)に入社した。
 TIでは倉庫番からのキャリア・スタートであったが次第に頭角を現し、89年からは米TI本社でワールドワイド製造・プロセス・パッケージ開発本部長を務め、91年に帰国して日本TI取締役、93年副社長。97年9月に神戸製鋼所へ移り、98年10月半導体事業本部長。2000年2月には日本ファウンドリーへ移り、同3月から社長。02年11月にエルピーダメモリへ転じて社長、03年1月に社長・最高経営責任者(CEO)へ就任した。
 エルピーダメモリでは、就任前年まで3年連続200億円以上の赤字が続いていた状況を改善。わずか1年で年間150億円の利益が出るまでに立て直すなどの経営改革を成功させる手腕を発揮。その後も順調に業績を伸ばしたが、リーマン・ショック後に収益性が悪化。公的資金の注入も受けて存続の道を探ったが12年2月に会社更生法の適用を申請、13年7月の米マイクロンテクノロジーへの売却完了に伴い、社長・CEOを退任した。
 15年に半導体設計会社のサイノキングテクノロジーを設立、中国安徽省合肥市の先端半導体工場プロジェクトへの参加を目指した。2019年11月に中国紫光集団高級副総裁兼日本子会社CEOへ就任。同社の経営悪化に伴い、2021年12月をもって同職を退任した。現在は台湾エイデータ・テクノロジーほか、いくつかの企業の顧問を務める。1947年生まれ、74歳。(写真:加藤康)
小柳 建彦(こやなぎ・たけひこ)
日本経済新聞編集委員兼論説委員
 1988年日本経済新聞社編集局入社。 経済部、日経ビジネス編集部、 証券部などを経て2001~03年に米シリコンバレー支局、03~05年同支局長。 05年から産業部ネット・メディア・通信・IT担当。 06年から企業報道部(旧産業部)編集委員(現職)。09~12年には電子版開発ディレクターを兼務し、『日経電子版』の立ち上げに関わった。13年11月~15年3月Nikkei Asian Review(現Nikkei Asia)創刊発行人。14年からシンガポール、バンコク、ムンバイに駐在。21年4月から東京で現職。