全3880文字
PR

 新型コロナウイルス感染症対策の切り札として2021年4月に本格始動したワクチン接種は、政府の判断にわずかな遅れや誤りがあれば、2020年に続く「デジタル敗戦」を喫する恐れもあった。成功と失敗の分岐点は、国がワクチン接種記録の仕組みを構築するか否か、さらには「構築できるか否か」の判断だった。

 菅義偉首相(当時)は2021年1月18日、政府におけるワクチン接種の司令塔として河野太郎規制改革相(当時)をワクチン担当相に任命した。河野ワクチン担当相らは国が接種記録の仕組みを提供する「VRS(ワクチン接種記録システム)」構築の方針を数日で固め、2021年4月からの稼働にこぎ着けた。VRSは後に大規模接種会場や職域接種など接種機会の拡大をデジタルで支える存在になる。

 ただし河野ワクチン担当相らが迅速に意思決定できた背景には、政府と裏方が進めてきた「仕事」があった。当初は国が接種記録システムを構築することについて「違法だ」との指摘すらあったからだ。課題を早期に解決できた原点は、2020年5月から始まった10万円特別定額給付金のオンライン申請で混乱を招いた1回目のデジタル敗戦だった。地方自治体が担当する行政事務について、国はデジタル化と負担軽減のために何ができるか。敗戦を反省材料として議論を重ねた関係者らの成果物が、2度目の敗戦の回避につながった。

「ワクチン接種こそマイナンバーを使う機会」

 政府がワクチン担当相を任命した2021年1月18日、国がワクチン接種記録にどう取り組むべきかを公の場で最初に発言したのは平井卓也デジタル改革相(当時)だった。「ワクチン接種記録の管理にはマイナンバーを使うべきだ。接種で使わずにどこで使うのか」。同日の閣議後会見でマイナンバー活用論を展開した。同日に就任した河野ワクチン担当相が、国によるシステム構築について「まず現状を把握する」と慎重な回答にとどめたのとは対照的だった。

河野太郎ワクチン担当相(当時、左)と接種記録へのマイナンバー活用を提言した平井卓也デジタル改革相(当時、中央)。2大臣の提言や検討を基に、菅義偉首相(当時、右)は国会で国が接種記録のシステムをつくる方針を答弁した
河野太郎ワクチン担当相(当時、左)と接種記録へのマイナンバー活用を提言した平井卓也デジタル改革相(当時、中央)。2大臣の提言や検討を基に、菅義偉首相(当時、右)は国会で国が接種記録のシステムをつくる方針を答弁した
(写真:左と中央は日経クロステック、右は参議院の配信映像をキャプチャー)
[画像のクリックで拡大表示]

 自治体が運用する接種台帳には当時、マイナンバーで接種記録を管理する仕組みがなかった。事実上、平井デジタル改革担当相の発言は政府が新たに接種記録の管理システムをつくるべきであるとの提言と関係者は受け止めた。

 河野ワクチン担当相は就任当日から動き始め、厚生労働省や内閣官房情報通信技術(IT)総合戦略室、マイナンバーを担当する番号制度推進室の職員らから状況や実現可能な解決策を聞き取った。ここで課題が浮上する。関係者によれば、厚労省は「国は予防接種記録を作成・管理できない。予防接種法で地方自治体の業務だと規定されているためだ」という趣旨の説明をした。

 一方で、河野ワクチン担当相は内閣官房の職員ら関係者に対し、厚労省が進めていた接種事務とデジタル化に対する見解も聞いた。同席した関係者によれば、接種の事務や記録がすべて市区町村単位になっており、自治体の縦割りになる弊害への指摘が多く出たという。例えば、市民が居住地以外で接種を受けた場合の事務が極めて煩雑になる恐れがあった。日本全国の日々の接種実績が本当に迅速に集計できるか懸念する声もあった。

 とはいえ、法令では国が地方行政の事務に関わることができない。河野ワクチン担当相による聞き取りが進むうちに、職員らからこの問題を解決する案が出てきた。

 国が地方行政の事務を支援するシステムの構築と提供に徹して、地方自治体に貸し出す方法である。アクセス権を制御することで、住民の接種記録は各自治体が個別に管理し、国はデータにアクセスできないようにする。いわば国が地方行政のクラウドサービス事業者になる方法である。データ仕様は標準化されているため、住民の異動などに伴う自治体間の連携業務も容易になる。

 国が地方行政のクラウド事業者になる構想の出発点は、1人10万円を支給する特別定額給付金のオンライン給付で起こった混乱にあった。10万円の給付金は本人を確認できるマイナンバーカードを使いながら、なぜ利用者の入力誤りを修正できないといった混乱が生じたのか。国のシステムが地方自治体の住民情報を参照できないなど、地方と国で業務に線引きがあり、基本的な情報の連携ができていなかったからだ。

 いまの制度の枠組みで実現できる範囲で解決策はないか。実は、官邸が主導する会議体のもとで「敗戦」直後の2020年6月から解決策が議論されていた。デジタル・ガバメント閣僚会議の下に設けた「マイナンバー制度及び国と地方のデジタル基盤抜本改善ワーキンググループ」である。ワーキンググループは2020年12月、政府が地方行政事務を支援するクラウドを提供する「自治体等共通SaaS基盤」を2022年までに構築する方針を決定し、同月の閣議決定にも盛り込まれた。

 河野ワクチン担当相の聞き取りに対し、小林史明ワクチン担当相補佐官(当時)や、ワーキンググループの案づくりにも携わった楠正憲政府CIO補佐官(当時、現デジタル庁統括官)が「国がクラウドを提供するという解決策が使えそうだ」と議論を始めた。国はシステムを提供するが、住民の接種記録にアクセスできなければ予防接種法に抵触しない、と解釈できるはずだ。