2023年は、1923年に発生した関東大震災から100年の節目にあたる。そこで今回の散歩は、東京・隅田川を下流から上流へ向けて遡りながら、「帝都復興事業」の足跡をたどってみよう。隅田川に架かる復興橋梁群や、店舗付き住宅、低所得者救済のための市設食堂、復興公園や小学校とセットで配置された小公園などに立ち寄った。1つずつ構造やデザインが異なり、“橋の見本市”と称される復興橋梁群。若者に人気のショップにリノベーションされた倉庫。鬼才・伊東忠太の設計による東京都慰霊堂など、土木・建築の見どころが満載だ。南海トラフ地震や首都直下地震などの脅威が迫る今だからこそ、過去の災害復興の思想を知るとともに、維持管理や利活用の知恵に学びたい。
1:深川東京モダン館(旧東京市深川食堂)
2:ベーカリー「TruffleBAKERY(トリュフベーカリー)」
3:臨海小学校、臨海公園
4:永代橋
5:緑橋
6:清澄庭園、清澄公園
7:旧東京市営店舗向住宅
8:清洲橋
9:隅田川テラス
10:萬年橋
11:芭蕉稲荷神社
12:芭蕉庵史跡展望庭園
13:ベーカリーカフェ「iki Roastery&Eatery(イキ ロースタリー アンド イータリー)」
14:両国橋
15:都立横網町公園(東京都慰霊堂、東京都復興記念館)
16:蔵前橋
17:厩橋(うまやばし)
18:フレンチレストラン「Nabeno-Ism(ナベノ-イズム)」
19:駒形橋
20:都営浅草線のトンネル湧水による噴水
21:吾妻橋
22:すみだリバーウォーク
23:東京ミズマチ
24:隅田公園(左岸側)
25:東武鉄道浅草駅
※散歩時間の目安:およそ5時間30分(見学時間や休憩などを含む、取材の際の時間)。1~13は前編で、14~19は中編、20~25は後編で紹介
帝都復興院が挑んだ「木造のまち」から「鉄とコンクリートのまち」へ
スタートは、都営大江戸線・東京メトロ東西線の門前仲町駅から。大江戸線側の6番出口を出て信号を渡り、50mほど歩いた角に「深川東京モダン館(旧東京市深川食堂)」の建物がある。
2階の一面を貫く横長のスチールサッシ窓や、妻側に「サイコロの六の目」のように並んだ丸窓、そして階段室の縦長の窓がレトロモダンな雰囲気だ。
旧東京市深川食堂は、旧東京市が関東大震災後の復興事業の一環として設置した市設食堂の1つ。当時、このような公衆食堂は市内16カ所にあったという。低所得者に、安くて栄養のある食事を提供した。現在は、観光案内所「深川東京モダン館」となっていて、内部も見学できる。
同建物は、構造にも注目したい。当時の最先端技術といわれていた、鉄筋コンクリート造(RC造)が採用されているのだ。これは、関東大震災における教訓の1つという。震災直後に復興の中核を担ったのは、内務大臣であった後藤新平が率いる帝都復興院だ。その大方針は「首都・東京の不燃化」にあった。10万5000人を超える関東大震災の死者・行方不明者のうち、9割近くが火災の犠牲者だったからだ。
1924年2月に帝都復興院が廃止されたのち、事業は内務省復興局に引き継がれ、木造の公共建物はRC造へと更新されていった。東京は関東大震災を境として、木造のまちから鉄とコンクリートのまちへと一変したのだ。
深川東京モダン館を後にして数十m歩くと、なにやら行列が見える。クロワッサンの看板が出ているので、パン屋のようだ。調べたところ、「高級食材のトリュフをふんだんに使ったクロワッサン」が人気で、メディアにもよく登場する「TruffleBAKERY(トリュフベーカリー)」の本店だった。
この一画は、1階が倉庫になった低層の事務所ビルが並ぶ。同店のホームページには、オーナーが「天井の高いビルを探していて見つけた」とある。ヨーロッパ調のおしゃれなファサードと若い女性たちの行列が、裏路地に華やぎを与えていた。
碁盤の目になった路地を南下し、永代通りを渡るとすぐに、「江東区立臨海小学校」がある。関東大震災後に、東京市が建設した117校の「震災復興小学校」の1つだ。校舎は深川東京モダン館と同様に、耐火性・耐震性にすぐれたRC造だった。
震災復興小学校のうち52校には、災害時に地域の避難場所となる「震災復興小公園」が併設された。臨海小の隣にも、低いフェンスで校庭と区切られた「臨海公園」がある。
「帝都の門」と位置づけられた雄大なアーチ橋
次に向かったのは震災復興橋梁の一つ、「永代橋」だ。関東大震災では、隅田川に架かる橋のほとんどが大きな被害を受けた。
木造の橋はもちろんのこと、いくつか架けられていた鋼鉄製の橋も、床は木製であったため火災で燃えてしまい、避難路としては機能しなかった。そこで復興局は、大地震や火災にも耐えられる恒久的な橋を計画した。
隅田川の震災復興橋梁は下流から順に相生橋、永代橋、清洲橋、両国橋、蔵前橋、厩橋、駒形橋、吾妻橋、言問橋の9つ。このうち両国橋、厩橋、吾妻橋の3つを当時の東京市が、残り6つを復興局がそれぞれ手がけた。
これらの復興橋梁は、1つずつ全て違うデザインで、あたかも橋の見本市のようだ。その理由は、復興のシンボルとなる都市景観を創り出すために、その場所の地域環境にふさわしいデザインがていねいに検討されたからだ。同時に、次なる大震災に備え、どの型式の橋が強いかを検証する意味があったとも言われている。
臨海小から再び永代通りに戻り、西へ向かうと10分ほどで道の先に永代橋が見えてくる。永代橋は隅田川の河口に位置することから、「帝都の門」としてどっしりと雄大なアーチがデザインされた。アーチの両側の支点部分に生じる水平反力を桁が受け持つ「タイドアーチ」という型式だ。
ふと橋詰広場に目をやると、公衆トイレの屋根に小さな永代橋のオブジェが載っていてほっこりする。
永代橋を堪能した後は、清澄庭園を目指す。途中で、隅田川と並行して流れる小さな川に、古そうなトラス橋が架かっていた。鮮やかな緑色の塗装は真新しく、トラスの下部に「緑橋」と書かれている。調べてみると、これも震災復興橋梁で、東京市が1929年に架設したものだった。
江東区の深川かいわいには江戸時代に多くの掘割がつくられ、今も運河として残っている。東京市が関東大震災後の8年間に架設した425橋の復興橋梁のうち、208橋が江東区域の橋だという。