1923年に発生した関東大震災から100年。隅田川を遡りながら、復興の足跡をたどる。前編では門前仲町をスタート地点として、不燃化のために鉄筋コンクリート造(RC造)で建設された市設食堂や復興小学校、公園、店舗付き住宅などを訪ねた。その途中、隅田川に架かる永代橋や清洲橋、運河に架かる緑橋と萬年橋といった復興橋梁も見て回った。中編では引き続き隅田川テラスを歩いて、それぞれタイプの異なる復興橋梁を味わいつつ、伊東忠太の設計による東京都慰霊堂も見学していこう。
1:深川東京モダン館(旧東京市深川食堂)
2:ベーカリー「TruffleBAKERY(トリュフベーカリー)」
3:臨海小学校、臨海公園
4:永代橋
5:緑橋
6:清澄庭園、清澄公園
7:旧東京市営店舗向住宅
8:清洲橋
9:隅田川テラス
10:萬年橋
11:芭蕉稲荷神社
12:芭蕉庵史跡展望庭園
13:ベーカリーカフェ「iki Roastery&Eatery(イキ ロースタリー アンド イータリー)」
14:両国橋
15:都立横網町公園(東京都慰霊堂、東京都復興記念館)
16:蔵前橋
17:厩橋(うまやばし)
18:フレンチレストラン「Nabeno-Ism(ナベノ-イズム)」
19:駒形橋
20:都営浅草線のトンネル湧水による噴水
21:吾妻橋
22:すみだリバーウォーク
23:東京ミズマチ
24:隅田公園(左岸側)
25:東武鉄道浅草駅
※散歩時間の目安:およそ5時間30分(見学時間や休憩などを含む、取材の際の時間)。1~13は前編で、14~19は中編、20~25は後編で紹介
江戸時代の教訓が関東大震災で生かされた橋
前編は都営大江戸線・東京メトロ東西線の門前仲町駅から出発し、隅田川と清澄通りに挟まれたエリアを縫うようにして、小名木川を越えたあたりまで歩いた。
そのまま隅田川の川上へ向けて親水施設「隅田川テラス」をどんどん進む。1kmほど歩いて、現れたのが両国橋だ。現在、国土交通省関東地方整備局が進める国道14号両国拡幅事業の一環として、6車線化の工事が実施されている。
両国橋は1657年の「明暦の大火」の後、隅田川で2番目の橋として架けられた。大火前、隅田川には上流部の千住大橋しか橋がなく、下流部の浅草橋一帯で多くの住民が逃げ場を失って犠牲になった。それが、両国橋架橋のきっかけの1つと言われる。
1904年に木橋からトラス鋼橋へ架け替えられていたため、関東大震災では船からの飛び火により上流側の歩道が焼け落ちたものの、構造体は大きな損傷を受けなかった。このため震災直後には応急復旧工事に使われ、その後、他の隅田川橋梁群と合わせて現在の橋に架け替えられた。
「災害時には橋が重要な役割を果たす」という明暦の大火の教訓が、関東大震災で生かされたわけだ。
鬼才・伊東忠太の設計による東京都慰霊堂
両国橋からいったん隅田川テラスを離れ、両国国技館と旧安田庭園を越えて右に曲がると、都立横網町公園の前に出る。場所が両国なものだから、てっきり“よこづな”町公園だと思いこんでいたが、漢字をよく見れば“よこあみ”町公園なのである。
ここは関東大震災のとき、逃げ込んできた近隣の住民3万8000人もの命が失われた場所だ。陸軍被服廠(ひふくしょう)だった土地を東京市が買い取り、公園を整備している最中の出来事だった。
まだ空き地状態だったところへ強風で火災の炎があおられ、避難者の持ち込んだ布団や家財道具に火が燃え移ったとされる。前編で紹介した清澄庭園・清澄公園が、4000本の樹々に囲まれていたために数万人の命を火災から守ったのと対照的だ。
1930年には、納骨室がある三重塔を備えた東京都慰霊堂のほか、鐘楼、日本庭園などを含めて横網町公園として開園。31年には被害状況や遺品などを展示する東京都復興記念館が完成した。
慰霊堂は当初「震災記念堂」と名付けられ、設計には築地本願寺の設計者として知られる伊東忠太があたった。構造は鉄骨鉄筋コンクリート造(SRC造)ながら、神社仏閣様式の外観を持つ。敷地内に建つ復興記念館の付け柱の上に、同氏のトレードマークだと筆者が思っている“怪獣”を見つけた。
復興記念館には、架け替えの際に取り外された両国橋の親柱の装飾や、被災した永代橋の写真、地下鉄や共同溝(ガス、水道、電気、電話などのライフラインをまとめて収める施設)まで作り込まれた復興計画の模型など、興味深い資料がたくさん展示されていた。横網町公園を訪れたら、ぜひ復興記念館も見学してほしい。