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日本原子力研究開発機構(JAEA)の研究者が組織を飛び出し、原子炉の設計を生業(なりわい)とするスタートアップを創業した。それが高温ガス炉(HTGR)の商用化を目指すBlossom Energy(東京・文京)だ。起業を決断した背景には、日本の原子力産業に対する危機感があった。目指す姿は、高温ガス炉の設計図をプラントメーカーに売る「ファブレスメーカー」。原子力業界における英Arm(アーム)となれるか。狙いと勝算をCEO(最高経営責任者)の濱本真平氏に聞いた。(聞き手は斉藤壮司)

Blossom Energy CEO(最高経営責任者)の濱本真平氏
Blossom Energy CEO(最高経営責任者)の濱本真平氏
(写真:栗原克己)
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 2022年4月にBlossom Energy(ブロッサムエナジー)の事業をスタートさせました。高温ガス炉を専門に開発する日本初のスタートアップ企業です。複数の高温ガス炉をクラスター化した原子力発電所を提唱、設計しています。具体的には、熱出力90MWの高温ガス炉8基を束ねて1基の蒸気タービンで発電する、電気出力約330MW(33万kW)の原子力発電所を想定しています。中くらいの火力発電所と同程度の規模でしょうか。2035年までに国内1号機の運転開始を目指します。

原子力研究は学生時代から

 原子力開発は学生時代からのテーマでした。大学院時代に取り組んだのは、海水に含まれるウランの収集技術です。海水中のウランの総量は鉱山における埋蔵量を上回るといわれ、その活用が長らく期待されています。私は、ポリエチレンフィルムを放射線で改質し、海中に浸してウランを集めるための捕集材をつくる研究に没頭していました。

 当時は、いわゆる原子力ルネサンス*1と呼ばれた、世界的な原子力ブームの少し手前に当たる時期だったと思います。社会的にも、原子力に対する期待が高まり始めていました。大学院修了後の就職先として日本原子力研究開発機構(JAEA)*2を選んだのも、私にとって自然な成り行きでした。原子力技術の社会実装を見据えながら基礎研究に取り組める組織は、他にないと思ったからです。

*1 原子力ルネサンス
2000 年代に米欧を中心に巻き起こった、原子力発電を再評価する風潮。

*2 当時は日本原子力研究所。2005年、同研究所と核燃料サイクル開発機構が統合して日本原子力研究開発機構(JAEA)に再編された。

 JAEAでは20年間にわたって、研究炉の運転や保守、研究開発に従事してきました。特に長く担当したのが、JAEAの大洗研究所(茨城県大洗町)に建設された「高温工学試験研究炉(HTTR)」*3に関する研究です。HTTRは1998年に稼働した日本初の高温ガス炉で、私が入所したのはその4年後です。

*3 高温工学試験研究炉(HTTR)
日本原子力研究開発機構が大洗研究所に保有する高温ガス炉の研究炉。熱出力30MW、原子炉出口温度950℃。

 例えば、HTTRの冷却材であるヘリウム(He)ガスの管理を高度化する研究に取り組みました。原子炉に使われるこういったガスは純度が高いほど良いイメージがあるかもしれませんが、実はそう単純ではありません。あえて一定の不純物を含ませることで、原子炉内の設備を良好に保てます。そうした基礎研究に10年ほど携わりました。

原子力規制庁を経て再びJAEAに

 転機となったのは、やはり2011年の東日本大震災です。福島第1原子力発電所の事故を受けて、全国の原子炉は研究炉も含めて安全性の再評価が求められました。新規制基準に適合するため、HTTRも約10年間にわたって稼働を停止することになります。

(写真:栗原克己)
(写真:栗原克己)
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 そうした中で、私は2年間ほど原子力規制庁に派遣され、その業務に携わる機会がありました。これは私にとってかなり貴重な経験でした。日本の原子力開発をもう一度軌道に乗せるためには、規制機関の信頼回復が必須であり、そのお手伝いをしたいと思っていたからです。

 例えば、原発が立地する自治体に赴き、原子力規制庁の施策や考え方を首長さんに説明する、いわば広報の役目をこなしました。またあるときは、事故に見舞われた福島第1原発で課題だった汚染水の取り扱いを、技術的な面から助言することもありました。

 原子力規制庁の仕事が落ち着き、JAEAに戻ったのは2014年です。事故のわずか3年後ですから、当時の原子力業界には、新しい原子炉を開発しようという雰囲気はあまりなかったと思います。JAEAも原子炉メーカーも、福島第1原発の事故対応に、お金も人材も引っ張られていたからです。