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 次世代エネルギーとして期待が高まる水素。実用化するには安価な水素の安定供給が必須となる。この要件を満たすべく川崎重工業(以下、川崎重工)が開発したのが、液化水素運搬船「すいそ ふろんてぃあ」だ。海を越えて大量の水素を運べる、現在世界で唯一の船である。同社は造船大手であるものの、近年は新たな船の開発をほとんど行っていなかった。世界初の船となれば、なおさら開発力が試される。荒波を乗り越えた開発者の奮闘に迫る。(本文は敬称略)

川崎重工の開発した世界初の液化水素運搬船「すいそ ふろんてぃあ」
川崎重工の開発した世界初の液化水素運搬船「すいそ ふろんてぃあ」
(写真:今 紀之)
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募る危機感

 「早うせなあかん!」

 2010年代前半。川崎重工の神戸工場は実証船の開発に大わらわだった。この工場に、誰よりも完成を急いでいた人物がいる。実証船——後に「すいそ ふろんてぃあ」と名付けられるその船の開発責任者を務めていた村岸治である。

 (こんなのんびりした空気では、世界初の座が危うい)

 現場を回りながら村岸はメンバーに発破をかけた。彼がリーダーに就任したのは2011年の夏のこと。村岸の指揮で開発は前進していた。だが、彼を含めて皆、緊張感に欠けていた面は否めなかった。経営幹部がまだ液化水素運搬船に関する詳しい事業内容について策定しておらず、「ほんまに造る気があるんだろうか」と疑問を感じる場面が多々あったからである。

 だが、村岸の脳裏には約50年前の「敗北」が焼き付いていた。その時、日本の造船業界は液化天然ガス(LNG)船の開発で出遅れた。結果、先行した欧米企業にLNG船のライセンスやルール制定を握られ、川崎重工は追従するしかなかった。同社にとっても日本にとっても苦い思い出だ。

 「今、実用化に向けてギアを上げないと後悔することになる。今度こそ、世界初を譲るわけにはいかない」

 村岸の心は危機感で満たされていった。

村岸 治
村岸 治
川崎重工業 エネルギーソリューション&マリンカンパニー 船舶海洋ディビジョン 技術総括部 液化水素運搬船開発部 特別主席(技術開発担当) 兼 本社水素戦略本部 プロジェクト総括部 プロジェクト推進部一課 上席研究員。肩書は取材時のもの。(写真:今 紀之)
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 川崎重工が「世界初」にこだわるのには理由がある。同社は2010年からの中期経営計画で二酸化炭素(CO2)削減につながる水素サプライチェーンを作る構想を発表。海外からの大規模な水素調達を織り込んだ計画だ。この計画を実現するには、いち早く、すいそ ふろんてぃあを世に出さなければならない。船がなければ、国境を越えた水素サプライチェーンは机上の空論となるからだ。水素活用の議論を進めるには、その大前提として、何としても船を形にする必要がある。

 すいそ ふろんてぃあには、日本の造船業界再興を期待する視線も注がれていた。日本の造船業界はかつては世界で高い競争力を持っていたものの、近年は中国や韓国に圧倒されている。それでも、ここで日本が高付加価値な液化水素運搬船で主導権を握ることができれば、船舶用ポンプやバルブを造る中小企業を含む企業群である海事クラスター全体の活性化につながるのだ。

 村岸の肩には会社はもちろん、日本の造船業界全体の期待という重圧がのしかかっていた。いつも泰然自若としている彼も、今回はさすがに焦りの色を隠せなかった。

約300℃高温の外気から水素を守れ

 というのも、村岸は難攻不落とも思える1つの技術課題に直面していたからだ。それにより、肝心の水素を貯蔵するタンクの開発が滞っていたのである。その課題とは、液化水素の保冷だ。

 「やはり、-253℃は世界が違う」

 「LNG船の輸送タンクを流用するのは無理だ」

 水素は-253℃で液化する。液化すると体積が気体の800分の1になって大量運搬が可能になる。ただし、運搬中も-253℃以下の極低温を維持しないと、水素は気体となってたちまち消失してしまう。国と国を移動する数週間の航海中、液化水素から見て300℃近くも高温の外気熱を完全に遮断し続けなければならない。

 船体自体は既存の船の構造を利用できる。ところが、この極低温の液化水素を貯蔵するタンク開発のめどが依然として立っていない。似たような極低温の液体には−162℃のLNGがある。だが、両者は取り扱いの難しさがまるで違う。約-200℃を境に空気が液化してしまうからだ。

 川崎重工が長年手掛けているLNG船では、輸送タンクをポリウレタンなどで覆って断熱している。仮にこの輸送タンクに液化水素を入れると、ポリウレタンの間などに入った空気まで液化してしまう。すると、断熱性が損なわれ、蒸発する液化水素の量も増える。気化して消失する量はLNGの10倍以上になると予想された。加えて、液化した酸素が原因で何かの拍子に火事を引き起こすなどの危険性も考えられた。

 -253℃といえば、太陽系で最も外側を回っている海王星の表面温度よりも低い。そんな極低温を洋上でずっと維持する方法なんてあるのだろうか。村岸の悩みは膨らむばかりだった。

「すいそ ふろんてぃあ」とは

 川崎重工業(以下、川崎重工)が開発・建造した世界初の液化水素運搬船。商用船ではなく、液化水素の運搬を実証するためのプロトタイプとして建造された。-253℃という極低温の液化水素を長期間運べる高断熱な貯蔵タンクを搭載している点が特徴。この貯蔵タンクの容量は、燃料電池車(FCV)1万5000台を満タンにできる量に相当する、約1250m3の液化水素を貯蔵できる。

 川崎重工や岩谷産業、シェルジャパンなどから成る技術研究組合「CO2 フリー水素サプライチェーン推進機構(HySTRA)」がオーストラリアから液化水素を日本に運ぶ実証実験で用いた。同実証実験で船は2021年12月に日本を神戸から出港し、2022年1月にオーストラリアに到着。褐炭から製造した水素を積んで、2022年2月に神戸に帰港した。

 実証実験の成功を受け、川崎重工は商用向けの大型液化水素運搬船を開発する予定だ。すいそ ふろんてぃあの128倍の16万m3の液化水素を輸送できる船を計画している。