白熱した議論の末、ついに世界初の液化水素運搬船「すいそ ふろんてぃあ」の基本的な設計を固めた川崎重工業(以下、川崎重工)の開発チーム。2016年には二酸化炭素(CO2)フリーの水素サプライチェーン構築を目指した技術組合「HySTRA」が発足し、川崎重工はその一員として液化水素運搬船を受注した。国からの補助金も付き、開発チームは一刻も早く液化水素運搬船を建造しなければならない事態に追い込まれた。(本文は敬称略)
図面がない
「図面が遅いで! ええかげん、早うくれや」
液化水素タンク(液化水素貯蔵用の真空断熱タンク、以下タンク)の設計担当者の元に、突如怒りの電話がかかってきた。この声には聞き覚えがある。タンクの製造担当者だ。
(図面をくれだって? この前きっちり渡したばかりじゃないか)
設計担当者は思わず声を荒らげた。
「なに言うてんねん、もう渡したやろ」
すると電話口の相手はじれったそうに、こう返した。
「タンクの図面は来とるけど、治具台の図面が来とらんのや」
設計担当者は首をかしげた。製造品を仮置きするための「治具台」は普通製造側の人間が設計するものである。我々設計側の人間は製品を設計することが任務であり、治具台にはタッチしない。そんなことは新人でも分かる常識だ。この人はいったい何を言い出すのか。
「治具台の図面は、そっちで用意するもんやろ?」
「はあ? うちらプラント部門では治具台といえば設計側が設計するもんや。もしかして船舶部門ではそういう慣習なんか?」
「なんやて?!」
設計担当者はショックを受けた。“こちら”と“あちら”とでは、ものづくりのルールが大きく異なるらしい。道理で「図面をよこせ」と文句を言ってくるわけだ。
(部門を超えた連携は難しいなあ)
受話器を置くと設計担当者は、今後も両部門で起こるであろうごたごたを想像して頭を抱えた。
縦割り打破の一大プロジェクト
すいそ ふろんてぃあは、真空断熱技術を採用した大型タンクを使用する。そのため社内でも前例が少ない船舶部門とプラント部門の共同実施事業という特殊な形で進められることになった。神戸工場(神戸市)などを拠点とする船舶部門がタンクを設計し、大型構造物の建造に強みがある播磨工場(兵庫県播磨町)のプラント部門がその製造を担った。
この治具台の図面騒ぎは、両部門の設計・製造フローの違いに起因する。船舶部門は慣例的に、一部の設計業務を製造担当に任せている。治具台はもちろん、タンク本体の設計でも最後の「生産設計」は製造担当の領分だ。一方、プラント部門では設計担当が全ての設計を担い、製造担当は製造に専念するのが習わしだった。こうした違いを互いに認識していなかったために、すいそ ふろんてぃあの設計・製造では頻繁に事件が発生した。相互にノウハウを出し合う共同プロジェクトは実りがあった。ところが、良くも悪くも縦割りが続いてきた川崎重工では予想外の出来事が多発したのだ。
(これはあかん)
この事態を重く見たのは村岸治が率いる開発チームだ。どちらかの部門が譲歩しなければプロジェクトは先に進まない。液化水素運搬船の実証は川崎重工だけではなく、他社や国も関わる一大プロジェクトである。社内の部門間のいざこざで完成が遅れでもしたら川崎重工の名が廃る。早く手を打たなければ。村岸は調整に動いた。
「船舶部門の皆さん、どうかここで一肌脱いでいただけませんか。大変な仕事であることは承知しています。でも、頼れるのはあなた方だけなんです」
村岸は船舶部門の設計担当のメンバーに、治具の設計や生産設計まで担当してもらえるよう、必死に頼み込んだ。
最初は眉間にしわを寄せていた彼らも、次第に村岸の必死さに心を打たれていった。開発責任者から直々に「あなた方しか頼れない」と言われてはむげにはできない。そして、何より我々船舶部門も、川崎重工の一員として世界初となる液化水素運搬船の建造という重大任務の要を担っているという自負がある。
「村岸さんにそこまで言われては、仕方がありませんね」
最後には船舶部門の設計担当の全員が村岸の依頼を受け入れ、「我々に任せてくれ」という自信に満ちた顔になっていた。
こうして船舶部門は治具台と生産設計の設計に取り掛かり、連日の作業の末にようやく図面が出来上がった。
(これで、プロジェクトも前進するだろう)
村岸がほっと一息ついていると、電話がかかってきた。部門間の調整業務は一苦労だったから、ねぎらいの言葉だろうか。期待とともに電話に出ると、思いも寄らない言葉が飛んできた。しかも、怒りに満ちている。
読めない図面
「なんやねん、この図面は! どやって造れっちゅーねん。この図面見て分かるやつがおるか?」
製造を担うプラント部門の技術者の声だった。
図面は技術者にとって「共通言語」である。それを読み解くことができれば、設計者の意図通りに製品を造れるはずだ。ところが、彼は「造れへん」と言い張る。事態を解明すべく、村岸は山城一藤を呼び、その図面を見るように指示した。
(あれ? なんか変だぞ)
山城が船舶部門から図面を取り寄せたところ、確かに部品の正面図、平面図、側面図が記してある。だが、普段見慣れている図面とは何かが違うのだ。山城はその違和感の正体を突き止めるべく、しばらく図面を凝視した。そして、はっとした。
(なんてこった、ここが違ったのか……!)