製造時に微細な穴が開くことすら許されない液化水素運搬船「すいそ ふろんてぃあ」の液化水素タンク(液化水素貯蔵用の真空断熱タンク、以下タンク)。高度な溶接技術が求められたが、技能教育センター「匠塾」を活用して社内ノウハウを伝承し、川崎重工業(以下、川崎重工)はこの課題をクリアしたかに見えた。だが、成功か否かはまだ分からない。それを判断するのは第三者機関や顧客だからだ。川崎重工は彼らに安全性の根拠を示さなければならなかった。(本文は敬称略)
「船級」の取得に向けて
「絶対に、100%、安全だという保証はあるのですか」
すいそ ふろんてぃあの開発現場から東へ約400km、東京・紀尾井町にある日本海事協会の会議室。川崎重工の開発メンバーである大橋徹也は同協会の委員に問い詰められていた。
「そ……、それを証明するために今、我々は最も大事な試験を懸命に行っています。その試験さえ終われば、全てお答えできるはずです」
冷や汗をかきながら大橋はかろうじてそう答えた。大橋はタンクや配管などの安全性を管理する社内ワーキンググループ(WG)の中心人物だ。日本海事協会との交渉役も担っていた。
日本海事協会は、船の運航に必要な「船級」に関する検査・登録を行う第三者機関である。船は万が一トラブルが起こると逃げ場がなく、重大な事故につながりやすい。そのため高い安全性が求められる。第三者機関(船級協会)による公正な審査を経て船級を取得しない限り、国際運航はできない。国内でその審査を担っているのが日本海事協会なのである。
大橋は川崎重工の代表者として月に一度は日本海事協会に赴き、安全性について議論した。それほど頻繁に通ったのは、「液化水素運搬船」が前例のない船だったからだ。それに「真空断熱タンク」がもともと地上プラントで使われる技術であり、船の業界では馴染(なじ)みのない技術であることも大きかった。
川崎重工はいろいろな場所で真空断熱の特徴を説明した。真空断熱とは何なのか、なぜ熱を通さないのかを、何も知らない相手に一から説明しなければならなかった。だが、断熱性能の高さは評価されたものの、「船で使って安全なのか」と問われると、回答に窮した。
それは結局のところ、十分なデータがなかったからだ。液化水素を詰めた後、もしもタンクに微小な穴が開いて真空状態が損なわれると、タンクに大量の熱が流入して液化水素はあっという間に気化してしまう。安全装置が作動するとしても、絶対に防ぐべき事態だ。つまり、タンクや配管の密閉性が重要になる。しかし、その要となる溶接技術は川崎重工のノウハウが詰まった職人技。経験則の部分が多く、第三者を説得できるような資料がまだなかったのだ。
「世界初の船で期待も大きいかと思いますが、くれぐれも注意してください」
言葉こそ丁寧だが、大橋の耳には厳しく響く。日本海事協会からくぎを刺された大橋はぐうの音も出ないまま、その日の会議は終了した。試験の結果が分かってから、もう一度会合が開くと同協会から宣告を受けた。
(思いっきり注意して開発を進めている。技術にも自信がある)
そう思いながら会議室を出た大橋は、神戸に戻る新幹線に乗った後、シートに深く腰掛けて目をつぶり、真空断熱を不安視する社外の人たちの気持ちを考えることにした。陸と海とでは安全性に関する要求レベルがまるで違う。ほんの0.1%でも危険があったら怖くて乗船する気にはなれないだろう。そこまで想像すると、船級を管理する日本海事協会が厳しく見るのは当然だと思った。
「やはり、安全面を一層磨かなくてはならないな」
ゆっくりとまぶたを開いた大橋は小さな声でつぶやいた。
眠れぬ日々
神戸工場に帰ってくると、陸付けされたすいそ ふろんてぃあが見えた。船体には例の1250m3の容積を持つ巨大なタンクが鎮座し、あちこちに真空断熱構造の配管が巡らされている。
4000人の観衆を前に進水式を挙げたのは1年ほど前のことだ。それからすいそ ふろんてぃあの名は瞬く間に広まった。だが、技術者にとっての正念場はむしろその後だった。進水式時点で完成していたのは船体のみ。タンクや機器の艤装(ぎそう)や、安全性や性能の評価といった大仕事は進水式の後だからだ。
特に、少し前にタンクを船に載せた時の緊張感はすごかった。450トン(t)のステンレス鋼の塊であるタンクをクレーンで高くつり上げ、1mmずつゆっくりと下ろしていく。タンク側と船側のそれぞれに付いた凹凸を、±2mmの精度で一発ではめ合わせなければならない。事前に3Dの仮想組み立てを行っていたものの、リアルで作業する瞬間は工場にいる誰もが固唾をのんだ。開発責任者の村岸治も船の上から見守っていた。
「はまった!」
無事にはめ合わされたことが確認されると、開発チームは皆、力いっぱい手をたたいた。気がつくと全員の手が真っ赤になっていた。その晩は村岸が開発チームを引き連れ、達成感をかみしめながら何杯も酒を飲んだ。大橋はその時のことを懐かしく思い出していた。
現実逃避かもしれない。大橋は眠れぬ日々を過ごしていた。川崎重工が今まさに、安全性を証明する上で最大かつ最終の関門に挑んでいたからだ。