1984年、それは世界にとって歴史的な転換点となった。パソコン市場では、米Apple Computer(現Apple)が今のパソコン「Mac」の源流である初代「Macintosh」を発売。音楽市場では、後に「キング・オブ・ポップ」と呼ばれることになるマイケル・ジャクソンがグラミー賞で8冠を総なめにした。そして、国際政治では、英国と中国が英中共同声明を発表。英国が1997年に香港の主権を中国に返還することで合意した。
この年、トヨタ自動車もまた歴史的な転換点を迎えることとなった。トヨタ自動車のクルマの開発力を飛躍的に高め、かつ企業としての成長をも加速させることとなった「初代レクサス」が、誕生に向けて歩み始めたからだ。この1984年に、後に「レクサスLS400」として知られることになる「新プレステージセダン」の開発が正式に決定した。
車両担当主査(以下、主査)は「クレシーダ(国内で人気のあった『マークⅡ』の輸出車名)」を担当していた神保昇二さんだった。そして、主査の「右腕」、主査付き主担当員(課長級)として指名されたのが櫻井克夫、すなわち筆者であった。他にメンバーはいない。わずか2人での船出だった。
このプロジェクトは開始早々に課題が発生した。神保さんが忙しすぎたのだ。神保さんは5代目マークⅡと3代目「チェイサー」、初代「クレスタ」という3姉妹車の主査を務めており、それらのフルモデルチェンジ開発の真っ最中だったからである。これらのクルマは1984年8月から順次発売された。「ハイソカー」とも呼ばれ、当時の顧客や社会のニーズとぴったりと合致して大ヒットした。月間販売台数で、当時トヨタ自動車において最も売れ筋だった「カローラ」から首位の座を奪ったこともあるほどだ。
尋常ではない仕事量を神保さんが抱えていたため、新プレステージセダンの仕事は必然的に筆者が担うこととなった。なにしろ、メンバーは2人しかいないのだから、筆者が手掛ける以外に選択肢がなかったのである。
そうした中、筆者は欧州行きを命じられた。訪欧する目的は2つあった。1つは、スイスで開催されるジュネーブモーターショーで技術説明員を務めることだ。筆者が開発したコンセプトカー「FX-1」が同ショーに出展されることが決まったからである。そして、もう1つが高級車の市場調査だった。「新プレステージセダンの構想のために欧州の高級車市場を現地・現物で見てこい」と会社から指示されたのである。もちろん、新プレステージセダンの主担当員に指名された筆者としては、こちらの仕事の方がより重要な任務だった。こうして筆者は1984年2月26日~3月11日の日程で欧州に出張した。
当時のノートを振り返ると、次のように記されていた。
- [1]なぜ、欧州では「クラウン」と「クレシーダ」は売れていないのか。
- [2]高級車には何が求められるのか。高級車の要件とは何か。
- [3]輸出専用車を造るとしたら、何に重点を置くべきか。
- [4]トヨタ自動車の欧州駐在員とドイツトヨタ(Toyota Deutschland)、欧州滞在デザイナーから意見を聴取する。
初代レクサスのコンセプトづくりは、この欧州出張から始まった。
スタイルも性能も価格も低評価
ジュネーブモータ-ショーでFX-1は大評判となった。記者発表を終えるや否や、テレビから新聞、雑誌までマスコミの取材が殺到した。FX-1は欧州の自動車記者や欧州の自動車業界に強烈なインパクトを与えたようだ。
ある記者は筆者にこう聞いてきた。「トヨタは『ソアラ』という魅力的なクルマを発売した(発売は1981年)。そして、今日はこのFX-1というニューテクノロジーを搭載したコンセプトカーを我々は見た。コンサバティブ(保守的)なトヨタで今一体、何が起こっているのか」と。欧州でずっと保守的と見られていたトヨタ自動車のイメージを変える役目を担うことに貢献できたようで、筆者はうれしかった。
技術説明員の任務を無事に終え、興奮覚めやらぬうちに新プレステージセダンのための任務に着手した。欧州の自動車市場や環境を見聞しつつ、第一線にいる関係者から高級車に関する情報を集める仕事だ。まず、トヨタ自動車の欧州の駐在員たちとは、新プレステージセダンに関するプロジェクトの存在と概要を説明し、意見を交換した。
このプロジェクトの通称はずばり、「Ⓕ(マルF)プロジェクト」だ。実際に、「○」の中に「F」を書いて「マルエフ」と呼ぶ。Fはフラッグシップ(Flagship)、すなわち旗艦を指す。この新プレステージセダンはトヨタ自動車にとってフラッグシップとなる製品を想定しているため、このように表現したのである。
この会議にはソアラの主査を務める岡田稔弘さんも同席した。欧州の駐在員たちからは、常日頃感じているトヨタ車の現状に対する思いや不満をこのときとばかりに聞かされた。そこには、クルマづくりを手掛けているトヨタ自動車の社員にとっては厳しい現実があった。
当時の欧州において、トヨタ車はスタイルも性能評価も価格面での競争力も、全てにおいて評価が低かったのだ。逆に言えば、欧州車の出来栄えが非常に良かったということでもある。欧州の駐在員たちの口からは厳しい現状を訴える声が止まらなかった。トヨタ自動車に期待する意見を聞いても悲観的な言葉しか出てこない。
要するに、「このままでは欧州でクルマの拡販などできない」というのが、トヨタ自動車が直面していた現実だったのである。