筆者が後の「レクサスLS400」になる「新プレステージセダン」のプロジェクトの存在を初めて知ったのは、この車種の担当を内示された時だ。1983年末のことになる。この内示を受けた筆者は早速、これまでの進捗状況をこのプロジェクトを担っている事務局関係者に確認した。
当時は日米貿易摩擦のさなかだった。1981年に対米乗用車輸出の自主規制が発出され、米国への輸出台数が規制されていた。そのため、トヨタ自動車としては高額で、1台当たりの利益率が高い高級車である「クレシーダ(日本名『マークⅡ』の輸出車名)」の商品力を高め、価格プレミアムを受けられるくらいにしたいという思いがあった。
その頃、米国における欧州高級車の輸入台数は、年々右肩上がりで増加傾向にあった。加えて、トヨタ自動車は1987年に会社創立50周年を迎えるため、その記念行事の1つにしたいという思いも、この新プレステージセダンの企画構想の下地になっていた。
1980年代のトヨタ車の欧州における評価が低かったことは既に述べた通りだ。走る・曲がる・止まるといった基本性能に対して厳しい評価を受けていた。スタイルのまずさはそれ以上のひどさだった。
理由は簡単だ。当時のトヨタ車のスタイルは、日本国内の法規制に合うように最適設計されていたからである。小型車枠として全幅1700mm以下という制約があったのだ。そのため、どのクルマも大体、ボックス状のスタイルになっていた。室内の余裕を取るために、結果的にそうせざるを得なかったのである。当然、魅力の欠けたスタイルとなっていた。
一方で、米国市場ではトヨタ車は小型で燃費が良く、耐久性の高いクルマとして好評を博していた。トヨタ自動車自体も、ユニークなクルマやトラックを造る会社として評価されていた。具体的には「カローラ」や「セリカ」といった小さなクルマ、もしくは「ハイラックス」といったピックアップトラックが人気を集めていた。
このように、当時のトヨタ自動車は高級車を造る会社だとは全く思われていなかった。トヨタ車といえば、故障が少なく品質が良くて割安。要は、バリューフォーマネー(お得感)のあるクルマを提供する自動車メーカーという位置づけだったのだ。事実、米国で販売する車種の中で最高級車はクレシーダだったが、お世辞にもスタイルは格好良いとはいえなかった。魅力的なクルマだと感じてくれる米国人などいなかったと言っても過言ではない。
最終決定会議に出された2つの案
トヨタ自動車の新型車のプロジェクトは当時、商品企画会議と商品企画機能会議、製品企画会議で審議され、最終的に商品企画機能会議で承認されて決定する流れとなっていた。全ては、商品企画会議から始まる。この商品企画会議に参加するメンバーは、営業系の企画機能を担う3部門である商品企画室と国内企画部、海外企画部と、技術部門を代表する製品企画室である。商品企画室のトップは製品企画室のトップが兼任するのが通例だ。そして、最終決定機関である商品企画機能会議には、会長と社長、副社長、そして担当専務がメンバーに名を連ねる。
新プレステージセダンの審議の展開を簡単にまとめると次のようになる。
新プレステージセダンは、1983年8月の商品企画会議で初めて審議された。長期製品計画の中に、世界に通用する新プレステージセダンの開発が提案されて議論になった。車両の大きさのイメージは全長4800×全幅1900mmで、エンジンの排気量は3L程度のクルマが提案された。
同年9月には、新プレステージセダンはクレシーダの後継モデルとすることが決まった。量販規模は5000台/月で、価格は1万7000米ドル(当時の為替レートで430万円)。そして、エンジンの排気量は3L+αくらいのイメージで議論された。
続いて、ワーキンググループが発足した。ここで立ち上がったプロジェクトの名前が「Ⓕ(マルF)プロジェクト」だ。改めて、FはFlagship(旗艦)の頭文字である。その上で、開発するクルマのイメージがさらに議論された。クルマのタイプはドライバー主体のパーソナルカーで、車格は欧州のトップセダンであるドイツMercedes-Benz(メルセデス・ベンツ)の「Cクラス(コンパクト)」やBMWの「5シリーズ」の対抗車となるイメージで議論された。
こうした議論の結果が、同年12月に開かれた商品企画機能会議で提案されたのだ。この会議では、2つの案が併記されていた。
A案:『クラウン』直上のハイオーナー・セダン
B案:ショーファーユース(運転手付きのクルマ)のフラッグシップサルーン
結論として、プロジェクトの具体的な中身については製品企画室の車両担当主査(チーフエンジニア:CE、以下主査)に委ねる、ということを豊田英二会長(当時)と豊田章一郎社長(当時)が了承した。これにより、新プレステージセダンのプロジェクトを進めることが最終的に決定されたのである。
2人の副社長が明かした企画の背景
新プレステージセダンの開発の話がどのような事情から生まれてきたのか。商品企画会議で審議される前の議論と検討がどのように進んだのか。これらは筆者にとって長い間、謎に包まれていた。
だが、『トヨタをつくった技術者たち』(トヨタ技術会編)を読んで理解した。その本の中に、松本清元副社長と佐々木紫郎元副社長の2人の対談記事が載っていたのだ。2人はレクサスLS400に関して開発時点と発表時点の技術部の最高責任者だった。新プレステージセダンの開始時、松本さんは技術部問統括専務取締役で、後に副社長に昇進。一方、佐々木さんは製品企画室室長取締役の後、レクサスLS400の発表時には副社長を務めていた。同書から該当部分を引用したい。
「松本:当時、トヨタ車はヨーロッパでちゃんと走らない。つまり、地に足がついていない(と言われていた)。我々が今のレクサスを開発する端緒、すなわちきっかけは次のようなものだ。1982年9月にヨーロッパに出張した際、予定の会議が突然キャンセルになった。そこで現地駐在員の勧めで、ベンツ、BMW 、VW(=Volkswagen)を借りてドイツ、スイス、イタリア、オランダを3000km走ったのです。それまでは、高速でトヨタ車はヨーロッパの車と比べて浮いたような走りになることを聞いていたが、空力的に悪いのだろうと勝手に想像していた。
しかし、実際に現地で自分で高速道路を運転してみて、ヨーロッパ車とトヨタ車との間に歴然とした差があることが分かった。ヨーロッパ車は(時速)150~160kmでハンドリングしても地面に吸い付くようにピタッとした感じで走る。しかし一方で、当時のトヨタ車はフワフワした感じで走った。その原因は、高速での細かい振動に対してアブソーバーが作動せず効いていなかったのだろう。
その後、ヨーロッパ向けの車を開発しようとなり、ヨーロッパへいろんな調査隊を出張させては足回りを改善させた。その結果、まずはトヨタの車が評価される実績ができて、その後、いよいよレクサスをやるということになった。
レクサスは、初めはクレシーダの後継車として企画したけれど、最終的には、ベンツ300とかやBMW5シリーズに対抗できるクルマにすることになった」
この松本専務(当時)によるアウトバーン長距離走行試乗の件は、筆者がレクサスLS400の企画に携わった時に、欧州駐在員だった同期の小林一夫課長から聞いて知っていた。「トヨタ車の現状と問題点、プロダクトに競争力がないということを松本専務に知ってもらった」と彼が筆者に熱っぽく語ったのを覚えていたからだ。
同書で、佐々木元副社長もこう語っていた。