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日経メカニカルのコラム「開発の軌跡」に掲載した事例を再録しました。本記事は、日経メカニカル2002年11月号に掲載したものです。

2002年を代表するヒット作になった5代目「フェアレディZ」。この開発は、水野和敏の個人プロジェクトとして動き始めた。一技術者による、1人だけの開発プラン。だが、会社はそれを認めない。走り出す前から、水野は窮地に立たされていた。

 1996年、銀座の日産自動車での開発役員会議の席だった。水野和敏は、役員からの容赦ない「口撃」にさらされていた。

 そういえば、同じようなことがあったっけ。数年前の記憶がよみがえる。あの時と何も変わらない。いや、セリフは全く逆だったけれど。

 それは、水野が市販車部門からレース部門に異動したての頃だった。「ちょっとピット裏のトイレまで来い」。呼び出された水野は、レース一筋の技術者に取り囲まれ、こうののしられた。

 「市販車あがりが何を言う」

* 横浜市に移転する前の日産の本社。

論外、問題外、却下

水野和敏
水野和敏
日産の伝説のエンジニア。「Z」の車両開発責任者(チーフ・ビークル・エンジニア;CVE )を務めた。(写真:栗原克己)。
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 水野が提案したのは「全ては人間のために」というコンセプトを掲げたシャシーの開発だった。

 「クルマのために人間が譲るようなことがあってはいけません。スペック優先で人間を忘れてもいけません」

 話は具体的になる。

 「まず、タイヤの接地面を横長から縦長にします。前後の重量(質量)配分はセダンで52%、スポーツで53%。これは厳密に守っていただかないと。そして、アーム類は全てアルミニウム合金でいきます。コストがかかっても、ばね下の軽さには代えられません」

 役員の反応は、冷たかった。

 「そんなこと言ってもね。レースカーじゃないんだから」

 「そんな趣味みたいな開発が許される時代じゃないんだよ、今は。全くレース屋くずれは世の中の厳しさがちっとも分かっておらん。こんなのが居るから困るんだ」

 厚木のテクニカルセンターへ戻るクルマの中でも、水野はこのシーンを反復し続けた。思い出すだに腹が立つ。何てやつらだ。分かってないのは自分たちの方だろ。

 やり場のない怒りが、全身を満たす。

 「やってらんねぇ。辞めてやる、こんな会社」

 ここで水野が辞めていたら、5代目「フェアレディZ」、通称「Z」は生まれていなかった。

1991年富士500kmレースでの「Cカー」
1991年富士500kmレースでの「Cカー」
前が「R91CP」で後ろは「R90CP」。(出所:日産自動車)。
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