夜間走行時の歩行者検出に赤外線カメラが有効であることに気付いた辻孝之は、橋本英樹と共に育て上げたナイトビジョン・システムを「レジェンド」のLPL(開発責任者)の齊藤政昭に売り込む。商品には程遠い試作品ではあったが、齊藤はその機能の有用性を実感。レジェンドの安全技術の切り札として同システムの採用を即決した。商品化を目指して改良は順調に進む。ところが役員プレゼンを目前に控え、トラブルが発生する。
それは、あまりに突然の出来事だった。それまで正常に稼働していたナイトビジョン・システムが、歩行者を一切検出しなくなったのだ。商品化の可否を決める役員へのプレゼンをたった2日後に控えて。
ナイトビジョン・システムの開発責任者である辻孝之はこの知らせを受け、開発拠点に駆け付ける。そこには、トラブルと必死で格闘する開発メンバーの姿があった。
「何も検出しないって、ホント?」
「はい」
「原因は?」
「それが、よく分からないんです。検出率が落ちたとか、誤認率が上がったとか、そんなレベルじゃなくて、とにかく何も引っ掛かってくれないんです」
「そんなばかな。昨日までは確かに動いていたのに。何か心当たりはない?」
「ええ、さっぱり」
開発はある種、トラブルとの闘いだ。それは、ナイトビジョン・システムも例外ではない。ある時には、検出精度が極端に落ちるというトラブルに見舞われた。長時間の走行で、エンジンの熱により赤外線カメラのハウジングが変形し、光軸がぶれてしまったのだ。ハウジングを設計変更する「事件」だった。しかし、今回は精度うんぬんというレベルではなく、歩行者を全く検出しないのだから、それ以上の「大事件」だ。辻は解決の糸口を求め、深い闇の中を彷徨(さまよ)っていた。
「辻さん」
後から駆け付けた橋本英樹の呼び掛けに、辻が我に返る。
「あっ、橋本さん、いつ来たんですか。全然気付かなかった」
「ちょっと前だけど。で、何か思い当たる節はないの?」
「ええ、何も検出しないってことは普通に考えれば、ハードウエアが壊れてるか、ソフトウエアにバグがあるか、どっちかです」
「うん。でも、ハードの故障はちょっと考えにくいんじゃないかなぁ。振動対策も万全だし熱対策も見直したし。接続も変えてない」
「ですよね。となると、ソフトかな」
「ソフトねぇ。特に最近いじったものといえば…まさか、アレ?」
「やっぱりアレが怪しいか」
辻と橋本が互いに思い至ったアレとは、降雨時の歩行者の検出性能を改善する雨天対応アルゴリズムのこと。雨の夜は、ぬれた路面からの光の乱反射で前方が見えにくい。こうしたシチュエーションに対し、辻らはナイトビジョン・システムが有効であると判断し、アルゴリズムを改良していたのだ。
「確かに、改良中の雨天対応アルゴリズムが本体のプログラムに影響を与えている可能性はある。ただ、2日後の役員プレゼンまでに解析できるかな」
「最近かなり変更しているし、正直、ちょっと難しいかも…」
「だよね。じゃあ、いっそのこと、削除しちゃおうか」
「でも、今からだと完全に切り離すのも難しいんじゃないかな」
「それじゃあせめて、調子が良かった少し前まで戻ろうよ」
「そうですね。残念ですけど、少し戻しましょうか」
「幸い、ここ数日は高気圧に覆われて天気が良いらしいから」
直ちに、アルゴリズム処理部を戻す作業が始まる。しかし、それは一筋縄ではいかない。追加時に変更したシステムのさまざまな個所を1つずつ元に戻さなければならないからだ。作業は昼夜に及び、システムが少し前の正常な状態に戻ったのはプレゼン当日の朝のこと。東の空には7月のまばゆい太陽がギラギラと燃えていた。