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一度は完全に国内生産から撤退した機械式腕時計──。セイコーインスツル(千葉市)は、その機械式腕時計の生産を1990年代に入って再開し、2004年には専用の高級工房まで開設した。そこでは「現代の名工」を含む時計技能士がメード・イン・ジャパンの逸品を造り出す。機械式腕時計を復活させるためには、多くの技術者の強い意志と努力が必要だった。

日経ものづくりのコラム「ドキュメント」に掲載した事例を再録しました。本記事は、日経ものづくり2005年9月号に掲載したものです。
久保田浩司
久保田浩司
(写真:栗原克己)

「そんなばかな! 後一歩という所まで来ていたのに」

「我々は必ず勝てます」

「納得できません!」

 受話器を手に声を荒げるのは、設計課の課長、久保田浩司。温厚な性格の彼が、大声を張り上げることなどめったにない。それだけに、周囲には緊張が走った。ただならぬ事態が発生したことを皆が察知した。その断片的な会話の中身から、それが「ニューシャテル天文台コンクール」に関連したことらしい、と。

 ニューシャテル天文台コンクールとは、時計の聖地、スイスで毎年開催される、時計の精度を競う世界最高峰の舞台。第二精工舎は1964年、諏訪精工舎(現セイコーエプソン)と一緒に機械式腕時計部門に初めて参加した。翌1965年、出品した時計の平均成績で競うシリーズ賞で第6位に入賞すると、1966年に第3位に、1967年には第2位にまで順位を押し上げた。

ニューシャテル天文台コンクールに出展したムーブメント
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ニューシャテル天文台コンクールに出展したムーブメント
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ニューシャテル天文台コンクールに出展したムーブメント
コンクールに挑戦するために、完全に新規設計した。(出所:セイコーインスツル)

 そして、迎えた1968年。狙いはただ1つ、あこがれのスイス勢を破り「世界一」の称号を手にすること。設計陣の中に組織した、久保田率いる専門チームは、その唯一無二の目標に向けて日々腕を磨き、確かな自信を得るまでに技術を極めてきたのだった。

 久保田が忌ま忌ましげに電話を切る。彼を心配そうに見守る専門チームをはじめ設計課の面々。設計課は水を打ったような静けさに包まれた。

「残念だが…」

 久保田が静寂を破る。

「ニューシャテル天文台コンクールが…。中止になった」

 無情の知らせに、設計課が落胆の色に染まる。日本に世界の頂点の座を奪われることをスイスの主催者側が恐れた。これが、後になって分かった中止の理由だった。