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クオーツ式腕時計の開発に多額の資金を注ぎ込むセイコー電子工業(現セイコーインスツル)。しかし香港勢の参入などにより、クオーツ式腕時計の低価格化に歯止めがかからない。そんな中、世界最大の時計見本市を視察したデザイナーの田中淳は、スイス勢の高級機械式腕時計に魅せられる。そして、「機械式腕時計復活のシナリオ」を胸に秘め、帰国の途に就いた。

日経ものづくりのコラム「ドキュメント」に掲載した事例を再録しました。本記事は、日経ものづくり2005年10月号に掲載したものです。
田中 淳
田中 淳
(写真:栗原克己)
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 陽春の穏やかな日差しが降り注ぎ、草木が一斉に芽吹き始める。景色はすっかり春。たった1週間離れただけなのに、ここ日本の季節はその何倍もの時が流れたよう。スイスで開催された世界最大の時計見本市「バーゼルフェア1988」の視察を終えた田中淳は柔らかな風を感じつつ、久しぶりのオフィスへと向かった。

 セイコー電子工業(現セイコーインスツル)デザイン室。そこが、彼のオフィスだ。上司に帰国報告を済ませて席に着くなり、仕事が次々と降ってくる。時差ボケも春ののどかな気分も瞬く間に吹き飛んでいく。

「例の新製品の件ですけど、新しいデバイスの量産が本格的に始まるので大胆な価格設定になるそうです。で、そのデザインなんですが…」

「今度の液晶は、明るさが格段に増してます。その特徴を何か新しい機能として生かせませんかねぇ」

 丁寧に対応していくものの、何か満たされない。それは、クオーツ時計に関するものだから。以前から感じていた虚無感は、バーゼルフェアから帰ってきてからより一層強くなった。

 机の引き出しを開ける。そこには、オフィスに着くなりしまい込んだ1冊のノートがあった。スイスのホテルで、深夜につづったあのノートだ。虚無感を埋められるか否かは、そこに書き留められた機械式腕時計の復活にかかっている。実現に向けて早く動きださなければ…。けれど、この提案は会社の方針に逆行する。慎重にタイミングを見計らわなければならない。田中は、引き出しをそっと閉めた。

 帰国から数日後、田中は出張報告を社内報に2ページで執筆することになった。まず、腕時計のデザインや機能など、今年のトレンドを要領よくまとめていく。

 次に、図を描き始める。太い線を描き、両端に矢印を付ける。一方の矢印の先に「低価格化」「画一化」「一般化」という文字を入れる。これが「セイコーが現在置かれているポジション」。そしてもう一方の矢印の先には「高価格化」「多様化」「希少化」という言葉を並べる。これが「セイコーが将来進むべきポジション」だ。

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セイコー電子工業の社内報(1988年6月号)
セイコー電子工業の社内報(1988年6月号)
これからのセイコーが目指すべきポジションを大胆に提示した。(出所:セイコーインスツル)
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 そして「時計の価値観は精度や合理性といった工業製品的価値から、味わいや伝統といった工芸品的価値に変わっている」という説明を添えた。完成。書き終えたばかりの原稿の傍らには、例のノートが置かれていた。

「社内報は、多くの社員が目にするから、例のシナリオを披露する絶好のチャンスだと思いました。ただ、それを露骨に表現すると、余計な摩擦を生みかねない。だから、あえてオブラートにくるんで表現しました」

 田中の出張報告が載った社内報が配布された。しばらくすると、田中の下には、機械式腕時計を是とする同志からさまざまな声が届くようになった。

「私も、今のクオーツ時計には物足りなさを感じてる1人。田中さん、機械式腕時計をもう一度やろうよ」

 ベテラン設計者が田中と同様の心情を吐露すれば、若手営業マンは自らの気持ちを素直に語った。

「僕は、初めてのボーナスで機械式高級腕時計を買いました。買ってよかったと思っています。そして、この同じ喜びをできるだけ多くの人に味わってほしい。だから、高級機械式腕時計を売りたいんです。自からの手で」

 これなら、ひょっとすると…。勇気付けられた田中は、時計事業を統括する事業部長の伊藤潔に秘めた考えを伝える決心をようやく固めた。