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服部セイコー創立110周年の記念モデルとして機械式腕時計の復活を提案し、了承されたセイコー電子工業の田中淳。難しいと思われた部品の製造も無事に終わり、後は組み立てを待つのみとなった。しかし、その組み立て職場ではトラブルが発生。機械式腕時計の本格的な事業化に向けて弾みとなるはずだった記念モデル事業に暗雲が垂れ込める。

日経ものづくりのコラム「ドキュメント」に掲載した事例を再録しました。本記事は、日経ものづくり2005年11月号に掲載したものです。
(写真:栗原克己)
(写真:栗原克己)

 セイコー電子工業(現セイコーインスツル)の組立室は重苦しい雰囲気に包まれていた。桜田守ら3人の組立師の前に、同じ形まで組み立てられた超薄型ムーブメント「6810」が並ぶ。まるで3人が示し合わせたかのように。実は、セイコー電子工業きっての組立師をもってしても、この先に進めないのだ。

 問題となっているのは、工芸品と見まがうばかりの見事な文様を映し出す「受け」と呼ぶ部品。その薄さ、柔らかさ、繊細さ故、傷が付きやすく目立ちやすい。事実、3人の目の前にある受けには、わずかだが同じような傷が付き、美しい文様を台無しにしている。3人は目を疑っていた。

 傷をよく見ると、それがステンレス鋼製のピンセットの先端部分が転写されて出来たことに気付く。腕利きの彼らが細心の注意を払いつつ部品を優しく挟むのに傷が付くのなら、部品を変えるか道具を変えるかしかない。

 とはいえ、この期に及んで部品の材質などを変更する選択はあり得ない。時間がないのだ。ベテラン組立師の1人が道具箱を開け、めったに使うことのないピンセットを取り出した。

「なるほど、プラスチックね。それなら確かに傷は付かないけど、剛性が足りないから、μmレベルの組立作業には向かないんじゃないかなぁ」

「いや、このピンセットの世話にならなければならない部品はほんのわずか。集中すればできるよ、きっと」

「そうだけど、俺たちが220個のムーブメントを組み立てるのに与えられた期間はたった3カ月。やっぱり作業効率は落としたくないな」

 万事休すか。再び、沈黙が組立室を覆う。2人のベテラン組立師が頭を抱える中、桜田が突然手を動かし始めた。

「桜田、何してるんだ」

「ツルツルにしたらどうかなあ、と」

「ツルツル?」

「ええ、ツルツルです」

 黙々と手を動かす桜田。2人のベテラン組立師も、彼の動きを注視する。

「出来た」

 桜田が、先ほどと全く変わらない動作で受けを優しく挟む。しばらく保持してから傷を確認する。と、傷の程度は明らかに軽くなっていた。

「ツルツルというのは、ピンセット先端の内側をバフで磨いて鏡面仕上げにしたという意味なんです。もちろん、つかみにくくなりますが、効率は慣れたステンレス鋼の方がプラスチックよりもはるかに上。そう考えたんです」

 桜田の機転によりピンチを脱出。3人には、先端の内側がツルツルに磨かれたステンレス鋼製のピンセットが用意された。それから約3カ月、3人は一心不乱に6810ムーブメントを組み立て続ける。最初のころはベテラン組立師のペースに付いていけなかった桜田も、終わりころには組立師としての天賦の才能を開花させ、彼らを追い抜くほどの見事な腕前を披露するまでに成長していた。

 かくして6810ムーブメント、220本が完成する。