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日常の暮らしや働き方コミュニケーションの形は新型コロナウイルス感染症拡大で大きく変化した。そんな変化が心の内面にも影響を与え始めている。気鋭の哲学者で『ツイッター哲学』(河出書房新社)などの著書で知られる千葉雅也氏と、ニューノーマル時代の新たな幸せの形を探る。(聞き手は堀越功=日経クロステック 副編集長)

堀越 新型コロナによって、我々は行動に制限がかかり、リアルなコミュニケーションができない状況に置かれています。千葉さん自身、何か心境の変化はありますか。

千葉 僕は大学に勤めていますが、春の学期は授業や会議も全部オンラインになったんです。意外にオンラインでもかなりのことができましたが、やっぱり実際に人と会った方が、話が早いことはあります。人は「目の前に存在する」ということが強い意味を持つんですよね、我々の社会生活においては。そういうリアルの重要性を、逆に実感させられたという部分も大きいと思います。

 リモートの時代にリモートなりの良さを言っていくことも大事だけれども、本来の人間社会の姿というもの、もう一度その重要性を考えなければいけないとも思います。

対談の録画を日経クロステックがキャプチャー
対談の録画を日経クロステックがキャプチャー
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堀越 千葉さんの『ツイッター哲学』(河出書房新社)の最初の方に、ある種の距離感、つながり過ぎてはいけない、接続過剰の切断、といった雰囲気が伝わってくる表現があります。今回のコロナ禍は、自ら意識的に接続過剰を切断するのではなく、外部から強制的に切断されてきたという事情もあると思います。

千葉 こう言うと冷たく聞こえるかもしれないけれど、僕は切断ということが大事だと言ってきたんです。それにはいろんな背景があって、これまでは物事がつながる、人がつながるというのがクリエーションを生み出すと強くいわれてきました。僕も基本的な前提としてはそうですが、「し過ぎる」とか、あるいは強烈な全体的な統一性に向かっていくとなると、人は息苦しくなる。やっぱり、個人が個人として存在することが大事なんだと言っていたんです。

 特に東日本大震災以後、「絆」というキーワードが注目されて、反原発デモが盛り上がったり、ある種の強い協同性が出てきたりしたわけです。その中で僕は「切断」と言っていたので、時代に逆らうようなところがありました。結局はコロナによって、まさに切断の哲学と言っていたことが悪い形で実現されてしまった。もはや我々は、ある種の切断を強いられて、その中でかろうじて、「どれだけつながれるか」というしかなくなったわけですよね。

 もう1つ問題なのが、日本では傾向として弱いんですが、諸外国では接触確認アプリなどを使うことによって、強烈に管理社会化が進んでいるという状況です。病気にならないようにする、死なないようにするという大義名分は、あまりにも強いし単純なので、人はそう言われるとなかなか逆らえない。それによって自分の行動情報やプライバシーを渡してしまう、同意してしまいかねないわけです。政治的に危険な傾向です。だけど、日本人というのは適当なところがあって、アプリはなかなか普及せずに抵抗しているんですよね。これを僕は非常に良いことだと思っています。