出資比率で対等になる日産自動車とフランスRenault(ルノー)。自由度が高まる日産にとって、大きなテーマとなるのがプラットフォーム(PF)開発だ。規模を追求し、共通PFを使う車両をグロ-バル展開する戦略は負の側面が目立ち始めた。地域ごとに異なる規制や好みに合わせられる柔軟性が競争力を左右する。
「今回の見直しを機に、彼らに自由が戻ればいいのだが」―。こう願うのは、日産を去ったパワートレーン技術者である。かつての同僚を思い、言葉が漏れた。
1999年に始まった日仏連合(アライアンス)の歴史。出資比率にゆがみのあったルノーとの関係から、日産の開発陣は20年以上にわたって制約を強いられてきた。
COO(最高執行責任者)として1999年に日産へやって来たCarlos Ghosn(カルロス・ゴーン)氏が、着任早々からにらみを利かせたのがハイブリッド車(HEV)である。日産は2000年の発売に向けて、新型HEV「ティーノハイブリッド」の公道試験を始めたばかりだった(図1)。
同氏はHEVに否定的で、「発売を渋っている」「すぐには採算が見込めないため、発売を見合わせるらしい」といった噂が飛び交った。結果的にティーノハイブリッドは2000年4月に購入予約が開始されたが、100台限定という制限を付けられた。HEVとしては世界で初めてリチウムイオン電池を搭載するなど、日産の意欲作だったにもかかわらずだ。
時は流れ、舞台は日産「e-POWER」の開発現場。シリーズ方式のハイブリッド機構を世に送り出そうと技術陣が奮闘する中、ルノー側から横やりが入った(図2)。
「シリーズ方式など開発するな。アライアンスに2種類もハイブリッドシステムは要らないだろう」。ルノーはシリーズパラレル方式のハイブリッド機構「E-TECH HYBRID」の開発を進めていた。このときは日産側が要求をはねのけたが、現場に緊張が走ったことは言うまでもない。