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国宝9点を収蔵する大阪市の「藤田美術館」が建て替えを終え、2022年4月に開館した。展示室に入る前の土間スペースをガラス張りにし、人々が立ち寄りやすくしている。

敷地北東側の交差点から見た美術館の外観。白い建物は入り口付近がガラス張りで、奥まで見通せる。道路側に柵や塀を設けず、街に開かれた美術館の在り方を模索した。外に張り出した庇が印象的だ。入館料は1000円で、19歳以下は無料(写真:生田 将人)
敷地北東側の交差点から見た美術館の外観。白い建物は入り口付近がガラス張りで、奥まで見通せる。道路側に柵や塀を設けず、街に開かれた美術館の在り方を模索した。外に張り出した庇が印象的だ。入館料は1000円で、19歳以下は無料(写真:生田 将人)
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 「こんな所に団子のお店なんてあったかしら?」。そんな声が聞こえてきそうな大阪の新名所が、大阪城近くに誕生した。地下1階・地上2階建ての小ぶりな文化施設「藤田美術館」だ。真っ白な外観がまぶしい。

 施設の西側には庭園が広がり、屋根付きの回廊と仕切りなく続いている〔写真1〕。庭園は隣にある都市公園「毛馬桜之宮公園」とも境界なくつながる。上空から見ると、美術館は公園の一部に思える〔写真2〕。

〔写真1〕回廊と庭園を一体化
〔写真1〕回廊と庭園を一体化
美術館の西側に設けた回廊と、茶室や塔がある庭園の間は自由に行き来できる。回廊の柱は細くして、庭園との連続性を高めた。回廊の白い壁は蔵を連想させるしっくい仕上げ(写真:生田 将人)
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〔写真2〕美術館の敷地を公園と接続
〔写真2〕美術館の敷地を公園と接続
かつて藤田家の邸宅があった場所に隣接して立つ。「毛馬桜之宮公園」と美術館の敷地との境界をなくし、公園とも接続した。美術館の敷地面積は約3300m2だが、広大な公園の一部に思えるようになった(写真:大成建設)
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 かつてこの場所は、明治時代に関西を代表する実業家として様々なビジネスに関わった藤田傳三郎(でんざぶろう)の邸宅があった場所だ。現在は大阪市が管理する公園になっている。美術館はもともと、藤田家が集めた美術品を収蔵するために建てられた蔵だった。

 藤田美術館は知る人ぞ知る私設美術館で、国宝や重要文化財を数多く収蔵する。その歴史は約70年に及ぶ。にもかかわらず、美術館は高い塀に囲まれ、周辺に住む人たちでさえ存在を知らない人が多かった〔写真3〕。空調がなく、春と秋しか開館しない。蔵を改装し、1954年にオープンした美術館は訪れる人が少ないまま、ひっそりと収蔵品を守り続けた。

〔写真3〕塀に囲まれて内部が見えず
〔写真3〕塀に囲まれて内部が見えず
建て替え前の美術館。明治時代に関西で財を成した藤田傳三郎とその子息が収集した約2000点の美術品を保管するための蔵だった建物を改装。1954年から美術館として利用してきたが、美術館は高い塀に囲まれていた(写真:大成建設)
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 その後、建物は老朽化し、公益財団法人藤田美術館は建て替えを決断。2017年6月から長期休館し、大成建設による設計・施工で新しい建物に生まれ変わった。22年4月に開館したのが現在の藤田美術館だ。

 館長の藤田清氏には、先代から受け継いだ収蔵品を後世に伝える責務がある。一方で収蔵品は広く公開し、多くの人に見てもらってこそ価値がある〔写真4〕。

〔写真4〕暗闇の展示室で美術品が浮き立つ
〔写真4〕暗闇の展示室で美術品が浮き立つ
展示室は暗くし、美術品の回りだけ照明を当てる。天井を覆う木のルーバーは、以前の建物から切り出した木板。不ぞろいのままランダムに取り付けた(写真:生田 将人)
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 大成建設関西支店の平井浩之設計部長は、「塀を撤去して美術館を街に開き、かつて藤田家の邸宅があった公園とも境界をなくしたいという話を藤田館長から聞いた。このとき建て替えの方向性が決まり、最後までぶれなかった」と振り返る〔写真5〕。

〔写真5〕ギャラリーから庭園と公園を臨む
〔写真5〕ギャラリーから庭園と公園を臨む
暗い展示室を抜けると、西側のギャラリーに出る。蔵の鎧(よろい)戸を窓として再利用し、公園とつなげて外を見せている(写真右)。明るい庭園に立つ高野山ゆかりの「多宝塔」がギャラリー正面に見える(写真:生田 将人)
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