建築構法の第一人者であり、建築界に多くの門下生を輩出した指導者でもあった内田祥哉(よしちか)氏が、5月3日に老衰のため96歳で死去した。戦後住宅の量産化に寄与するなど、建築界に捧げた半生だった。
内田祥哉氏は自身のことを率先して語る人物ではなかった。東京帝国大学総長を務めた父・内田祥三(よしかず)や、丹下健三がコンペで連敗を喫した兄・祥文(よしふみ)など家族の話題も取材ではあまり触れたがらなかった。
太平洋戦争終結から2年後、内田氏は1947年に東京帝国大学を卒業し、逓信省に入省した。吉田鉄郎が退職した直後で、小坂秀雄らが営繕部で活躍していた時期だ。電気通信省、日本電信電話公社を経て、56年に退職。その後30年間、東京大学で教鞭を執った。
内田氏の建築家人生は「研究」とデザインでの「実践」、その反復に尽きる〔写真1、2〕。日本建築学会賞を作品と論文の両方で複数回受賞していることが1つの証左といえるだろう。同世代の建築家・篠原一男は内田氏が設計した建築を見て、「アーキテクトとしての活動を多くしないことが惜しいほどの才能だ」と漏らした。