2022年12月28日、磯崎新が他界した。まだ学生だった1960年に鮮烈なデビューを果たして以降、国内外の建築界をリードした。晩年、87歳でプリツカー賞を受賞。歴史やアート、哲学、情報に造詣が深く、建築は表現の1つだったのかもしれない。時代の中心となる表舞台に立つことも多かったが、ときに“事件”を巻き起こし、世の中に問題を投げかけて楽しむ一面もあった。著した批評や作品集は100冊超。建築の創造と批評を繰り返しながら、常に一歩引いて時代を俯瞰(ふかん)する──。そんな「闘争」と「矛盾」に満ちた異能の建築家の実像に、関係者の証言から迫る。

闘争と矛盾の磯崎新
証言から解き明かす異能の建築家
目次
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磯崎新とは何者か、大分の初期作へ
膨大な資料を残した磯崎新。人物像を探るべく故郷・大分市へ向かった。初期作「大分県立大分図書館」(1966年)は約25年前「アートプラザ」に改修され、磯崎はそれを“転生”と呼んだ。今、再び“転生”の時を迎えていた
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審査では案よりも人、言葉と物の矛盾も
1970年大阪万博の仕事で磯崎新と出会った伊東豊雄氏。「せんだいメディアテーク」のコンペでは応募側と審査側で対峙するなど接点は多い。まだ「兄貴分」の広い懐をまねできていないと省みる。
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闘争の場と捉え、コンペを事件化する
日本を代表する現代建築の1つ「せんだいメディアテーク」。設計競技では、ほぼ前例のない公開審査を行った。審査委員長を務めた磯崎新は、なぜそれを仕組んだのか。生涯、コンペに注いだ磯崎の情熱を解き明かす。
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裏話で深掘る人間・磯崎
建築設計にとどまらない膨大な活動で、建築界に大きなインパクトをもたらしてきた磯崎新。磯崎の活動の中から主要なプロジェクトや著作、世間をにぎわせた出来事を選び、年表にまとめた。磯崎と関係が深かった人物たちによる裏話と共に、91年の激動の生涯を振り返る。
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磯崎さんだから、アートポリスは続いた
建築文化事業「くまもとアートポリス」は、磯崎新が「設計者推薦の全権」を握る異例の制度として開始した。磯崎を推したのは当時、熊本県知事で後に内閣総理大臣を務めた細川護熙氏だ。
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原動力は存在感、放任を貫いたKAP
磯崎新は希代の建築プロデューサーだ。「ネクサスワールド」「ハイタウン北方」など記憶に残る多くの事業の中でも、影響の大きさでは「くまもとアートポリス(KAP)」だろう。異色の仕組みはなぜ続いたのか。
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言論から読み解く思想の遍歴
磯崎新はデビューから晩年まで、建築家として類がないほど旺盛な執筆活動を行った。建築ライターの磯達雄氏が、磯崎を理解するために重要な言葉を選び出して解説する。
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自由曲面の実現で世界に挑んだ
自由曲面の大屋根や、生き物のような流動的な構造形態──。1980年代以降、前衛的な建築デザインが増えていった磯崎新。中・後期の磯崎建築を構造面で支えてきたのが佐々木睦朗氏だ。
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磯崎が予見した建築・都市の未来
まだコンピューターが一般に普及していなかった時代から磯崎新は技術が発展した未来の社会を見据えていた。磯崎が「予言」した都市は、DX(デジタルトランスフォーメーション)が進んだ現代の都市そのものと言える。
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写真で見る磯崎の20世紀建築
磯崎新が絶頂期の20世紀に手掛けた建築を写真で振り返る。いずれも国内に立ち、誰でも利用できる。磯崎新アトリエでは、まず磯崎がスケッチで形を描き、それを所員が解釈することで設計を進めていた。立方体、正四面体、半球──。こうした幾何学的な形には、磯崎の思考が宿っている。
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“カウンターパンチ”恐れず踏み込む
血気盛んな日本の若手建築家を米国に率い、惜しみなく人脈に引き入れた磯崎新。その後、世界的建築家として活躍する安藤忠雄氏は磯崎をどう見たのか。建築界が失った大きさも語った。