膨大な資料を残した磯崎新。人物像を探るべく故郷・大分市へ向かった。初期作「大分県立大分図書館」(1966年)は約25年前「アートプラザ」に改修され、磯崎はそれを“転生”と呼んだ。今、再び“転生”の時を迎えていた。
「アーキテクチュアの意味はどんどん広がり、アーキテクトの仕事は国家、都市、住居、情報システム、外交戦略など我々の社会全体を貫くような性格を持ち始めた」。亡くなる約3年半前の2019年5月、プリツカー賞の受賞に際し、磯崎新はこう述べた。建築の意味を探り、既成の体制や概念に「闘争」を仕掛けてきた磯崎が、世界の評価を確たるものにした。
「今の建築界の在り方を予見していた人だった」と評するのは、建築史家の藤森照信氏だ。特集班が取材を続けていくと、「広範な分野に造詣が深く、芸術にも精通していた」(磯崎新アトリエOBの渡辺真理氏)、「いかなる論を張ることもできるし、破ることもできる」(内藤廣氏)、「歴史観があるから、いつまでも読める寿命の長いテキストを生み出した」(隈研吾氏)など、“知の巨人”たる磯崎の圧倒的なインテリジェンスに敬服する声は枚挙にいとまがなかった。
一方、安藤忠雄氏はこう表現する。「興味深いのは、東西の歴史の深い教養を持って世界を相手に哲学を語り、それを建築で表現するコスモポリタンでありながら、一方で大分という自分の出自を、ずっと大切に背負い続けておられたこと。それが磯崎さんという希代の建築家の本質の1つだったと思う」
インテリジェンスという一面だけでは磯崎がなぜここまで国内外の建築界に影響を及ぼしたのか深く理解することはできない。数々の証言をヒントに、記者は大分に向かった。