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建築文化事業「くまもとアートポリス」は、磯崎新が「設計者推薦の全権」を握る異例の制度として開始した。磯崎を推したのは当時、熊本県知事で後に内閣総理大臣を務めた細川護熙氏だ〔写真1〕。(聞き手は宮沢 洋)

〔写真1〕後に芸術家となった審美眼
〔写真1〕後に芸術家となった審美眼
インタビューは細川氏の工房で行った。細川氏は政治の世界から退いた後、陶芸に専念。2009年からは油絵を描き始め、12年に襖絵(ふすまえ)の制作を開始。22年には京都の龍安寺に雲龍図襖絵32面を奉納するなど、現在は画家として引っ張りだこ(写真:的野 弘路)

ほそかわ もりひろ(元熊本県知事、画家、陶芸家)
1938年東京都生まれ、63年上智大学法学部卒業、朝日新聞社入社。68年同社退社。71年参院議員。83〜91年熊本県知事。92年日本新党結成、参院議員。93年衆院議員。同年、第79代内閣総理大臣。94年辞任。98年衆院議員辞職。99年より作陶を始める

くまもとアートポリスのスタートは、細川さんが県知事時代の1987年(就任2期目)、ドイツ・ベルリンの「IBA」(ベルリン国際建築展)を視察にされたのがきっかけと聞いています。

 そう、87年でしたね。IBAを中心に、欧州の都市のまちづくりを改めて見たかった。それで、日本でも4年に1回、建築博覧会をね、まちづくり博覧会といいますか。そういうものをやろうと思いついたんです。

磯崎さんからIBAを見に行こうと誘われたのですか〔写真2〕。

〔写真2〕磯崎新が「IBA」に参加していたことが後押し
〔写真2〕磯崎新が「IBA」に参加していたことが後押し
ベルリンのIBA(ベルリン国際建築展)で磯崎新が設計した6階建ての集合住宅。IBAの再開発エリアは建築家のヨーゼフ・パウル・クライフスがディレクターを務めた。日経アーキテクチュア1987年10月19日号に掲載(写真:Miro Ito)
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 それは違います。磯崎さんがIBAでプロジェクトを手掛けておられたことは、行く前には知りませんでした。

磯崎さんとは、それ以前から面識はあったのですか。

 はい。いつごろか忘れてしまいましたが、京都の俵屋(老舗旅館)で最初にお会いしました。女将さんが磯崎さんと親しくて、私も親しかったので、お目にかかりました。その後も、座談会とかで何度か同席しました。

 そうしたなかで、磯崎さんのことは信頼できる方だなと思いました。IBAに関わっておられることも分かったので、「まとめ役は磯崎さんにお願いするしかない」と思いました〔写真3〕。

〔写真3〕海外の著名建築家も招く
〔写真3〕海外の著名建築家も招く
くまもとアートポリスのスタート時にオーストリアの建築家、ハンス・ホライン(左から2番目)を迎えて話をする細川護熙氏(右端)と磯崎新(左端)。事業開始時にハンス・ホラインが設計する福祉施設は目玉の1つだったが、実現しなかった(写真:熊本県くまもとアートポリス事務局)
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 熊本では、IBAのように集合住宅だけでなく、もっとまちづくりに関わるものをつくっていければいいなというご相談を磯崎さんにしました。

他にも候補者は考えましたか。

 いや、その頃はあまり建築家の方は知らなかったんです。熊本で実績があった葉祥栄さんと木島安史さん(1937〜92年)くらいでした。安藤忠雄さんもその頃はまだ存じ上げなかったと思います。

コミッショナーが1人で設計者を推薦する制度は当時、日本に存在しなかったと思います。東京都には設計候補者選定委員会というものがあって、それは集団で設計者を決める制度でした。

 「コミッショナー」という呼び方を考えたのは、磯崎さんだったと思います。私はとにかく「まとめ役は磯崎さんにお願いしたい」としか言いませんでした。具体的な進め方については磯崎さんの方で考えていただきました。

設計は入札で決めるのが当たり前の時代に、大英断だったのではないかと思います。

 今考えても、一番ふさわしい方にお願いできたと思います。他の方だったら、うまくいかなかったかもしれない。

 磯崎さんは建築だけではなくて本当に幅広い知識を持っておられました。歴史感覚もあるし、時代感覚もある。地方のこともよく分かっておられる。そして、とてもセンスがいい。