血気盛んな日本の若手建築家を米国に率い、惜しみなく人脈に引き入れた磯崎新。その後、世界的建築家として活躍する安藤忠雄氏は磯崎をどう見たのか。建築界が失った大きさも語った。(聞き手は菅原 由依子)
磯崎新さんが台頭された1960年代はどういう時代でしたか。
あの10年間が日本の「青春」だったのだと思います。60年安保闘争に始まり、64年東京五輪そして70年大阪万博(日本万国博覧会)、最後は三島由紀夫の割腹自殺。社会が激しく揺れ動きながらも、ずっと未来に向かっている感覚がありました。
何より日本人が「考える力」を持っていた。そんな時代の空気を、建築界で体現していたのが、磯崎さんでした。あれからずっと先頭に立って走り続けて来られて──。一回り下の我々世代にとっては、憧れを越えた特別な存在でした〔写真1〕。

あんどうただお(安藤忠雄建築研究所)
1941年生まれ。独学で建築を学び、69年安藤忠雄建築研究所設立。79年「住吉の長屋」で日本建築学会賞、95年プリツカー賞、2002年米国建築家協会(AIA)ゴールドメダルをはじめ、国内外で受賞多数。1997年から東京大学教授、2003年より名誉教授
磯崎さんの建築にはどのような印象がありますか。
最初に見たのは、独立前後につくられた「大分県医師会館」(60年竣工、99年解体)です。すさまじい迫力に圧倒され、未知の建築の世界を垣間見たような、不気味な恐ろしさを感じたほどです〔写真2〕。
磯崎さんの建築の本質を理解するならば、90年代以降に都市的スケールへ展開する前の、初期の仕事に注視すべきだと私は思います。「大分県医師会館」や「大分県立大分図書館」(66年)、「福岡相互銀行大分支店」(67年)、「群馬県立近代美術館」(74年)。メタボリズムやポストモダンの先駆けのようにいわれますが、そんな言葉では到底くくれない「力」が一つひとつの建築にみなぎっている。