IT企業の創業に加わり、役員をしながら純文学を書いて第160回芥川賞を受賞した。ネットが普及して人は思考密度を高めやすくなったが、ノイジーで生きにくくもなったとみる。ITの担い手に対し「社会を一緒につくる人だと世に認められた。責任も重くなる」とエールを送る。
(聞き手=大和田 尚孝、谷島 宣之)
芥川賞を取った『ニムロッド』の1行目にいきなりサーバーやCPUという言葉が出てきます。IT用語が頻出する作品が受賞したことに驚きました。
ちょっと信じられないですよね。いい作品になったという実感は完成直後にすごくあって自信満々だったのですが、しばらくしてからサーバーとか仮想通貨とか、これだけ書き込んでしまったら賞など取れないかなあと思ったりしていました。
仮想通貨の仕組みなど難解な箇所が分かりやすく書かれていると感じました。
人々の拒否反応が出やすい新しいことをうまく伝え、多くの人とコミュニケーションを取りたい、その術を学びたいと常に考えています。『ニムロッド』はサーバーやビットコインを出さないと表現できないテーマの作品でしたから、どう分かっていただくかに気を配ったつもりです。
全体は進化するが個人は薄っぺらに
ITによって世の中は大きく変わりました。どう受け止めていますか。
それこそ地球の裏側で誰かがつぶやいた言葉を捕捉できてしまう時代ですよね。ツイッターに書き込む140文字くらいであれば、全く知らない言語でも自動翻訳できてしまい、間近で聞こえる。すごく便利なようでノイジーでもある。色々な声が聞こえる中で、自分としては次の一歩をどこに踏み出すのかさえ迷わざるを得ない現状があって、なんだか生きにくいなあと。
一方で思考の密度を高めやすくなっている。何かを調べようと検索すると大量に出てきます。読んでも当初はよく分からないので次にこれとあれを調べようと続けていけば考えをどんどん深めていける。SNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)になぞらえて言うと、誰でも見られて拡散していくツイッター的なものと、特定の知り合いとだけやり取りして密度を高めていける鍵付きフェイスブック的なものとがある。
便利になり全体としては進化しているように見えるけれども個々の人は軽くて交換可能な存在になってしまった。そういうビジョンが受賞作や過去の作品に描かれています。現実がそう見えるのですか。
ITがここまで発展していないとき、村一番の秀才は世界一の秀才に見えたのではないでしょうか。今は世界一の秀才がどういう人かネットで分かりますから村一番の秀才は全体の中ですぐ位置付けされてしまう。味気ないですよね。全体を把握できてしまうと自分は全体を構成するために、あるいは奉仕するために人生を浪費させられていると思えてくる。
自分の意味って何だろう、存在する必要なんてないのでは。いやいや、自分は駄目な奴かもしれないが、それこそが自分の味なんだ。駄目さを愛せないと人生はしんどい。日本はクリーンなものを求める社会だから、ちょっとでも傷が付いたものをすぐ足蹴にしてしまう。傷だって味だよね。失敗しない人ばかりで構成された社会なんてつまらないし冷たい。こんなことを考えたりします。