全8681文字
PR
情報不要のマクスウェルの悪魔は存在するか

 マクスウェルの悪魔とは、電磁気学を確立したあのマクスウェルが1867年に提示した熱力学上のパラドックスである(図A-1)。結論からいうと、この“悪魔”が存在すると、エネルギーの高い分子だけを選別することで、外部のエネルギーを使わずに水からお湯が取り出せることになる。つまり、エントロピーが減る第2種の永久機関ができてしまう。

[画像のクリックで拡大表示]
図A-1 マクスウェルの悪魔は最近撲滅
[画像のクリックで拡大表示]
図A-1 マクスウェルの悪魔は最近撲滅
[画像のクリックで拡大表示]
図A-1 マクスウェルの悪魔は最近撲滅
マクスウェルが1867年に発表した、気体粒子をそのエネルギーで選別する悪魔のパラドックス(a)。こうした悪魔がいれば、冷たい水から外部のエネルギーを使わずに熱いお湯を取り出せることになる。これは第2種の永久機関と呼ばれる。約150年の議論を経て、熱力学に情報理論を取り込むことでパラドックスが解消した。当初の、“悪魔”がエネルギーを使わずに粒子を選別するという想定が原理的に実現不可能であることが分かったのである。粒子をより分けること自体は実現可能で、NTTが2017年5月、単電子トランジスタで実証して見せた(b)。電子を観測し、扉を開閉するだけで、電子をより高い電位に引き上げ、電力として取り出せる。ただし、トランジスタの駆動電力などを含めたトータルでは、エネルギーを消費してしまう。(図:(a)はWikipediaの図を基に日経クロステックが作成。(b)と(c)はNTT)

 もちろん、それは不可能だと誰もが思っている。ところが、論理的に厳密にそれを示すのは思いのほか難しく、150年以上もかかった。結局、当初の熱力学は実は厳密には誤りで、「情報熱力学」という情報理論を熱力学に組み込んだ理論によってようやく解決したことになっている。“悪魔”がエネルギーの高い分子を選別する際に、情報処理が必要だが、そのエネルギーやエントロピーを考慮すると、やはり第2種の永久機関は不可能であることが示されたのである。NTTは単電子トランジスタだけで“悪魔”と同じことができることを実証したが、それにエネルギーが必要なことも示した。

情報は使っていない?

 ただし、今回の温度差なしの熱発電技術がそれで説明できるかどうかは不透明だ。何よりも、実際に熱だけで発電できてしまっているからである。

 上述のマクスウェルの悪魔と違うのは、こうした温度差なしの熱発電技術が、情報処理のプロセスなしにエネルギーの高い電子をより分けているように見えることだ。

 実はこのような状況も以前から議論されており、「ブラウン・ラチェットのパラドックス」と呼ばれている(図A-2)。熱による分子のランダムな運動、つまり「ブラウン運動」だけでラチェット型の歯車が回るかどうかという議論だ。これも論争が長く続いた。

[画像のクリックで拡大表示]
図A- 2 悪魔なしで熱からエネルギーは取り出せない?
[画像のクリックで拡大表示]
図A- 2 悪魔なしで熱からエネルギーは取り出せない?
マクスウェルの悪魔とは別に、ブラウン運動中の特定の粒子の運動エネルギーを取り出す仕組みを考えた例。ラチェット(爪付き歯車)にブラウン運動中の粒子が衝突した際に、ラチェットが回る向きに衝突した粒子のエネルギーは取り出せるのではないかと考えられた(a)。1950年にはその電子回路版も考案された。しかし、結局、温度差がない限り多数の粒子の運動エネルギーは相殺されてしまい、マクロなシステムとしてはエネルギーを取り出せないと1993年に証明されたことになっている。ただし、今も反論となる論文は出されている。(図:(a)(b)はWikipediaより引用。(c)は日経クロステック)

 現時点では結局、こうしたラチェットはやはり回らないと1993年の時点で結論されている。ただし、それは分子や電子の運動という枠組みでのこと。温度差なしの熱発電技術では、半導体中の電子のエネルギーにばらつきが生じることが発電できる根拠の1つだ(図A-3)。これが、ブラウン・ラチェットの議論の枠組みに入るかどうか自明のこととはいえない。

[画像のクリックで拡大表示]
図A-3 半導体のバンドギャップは“悪魔”か?
図A-3 半導体のバンドギャップは“悪魔”か?
半導体中の電子は低いエネルギーから高いエネルギーまでさまざまなエネルギーをある確率で持ち得る。それは、フェルミ・ディラック統計と呼ばれる。たとえ温度が低く、平均としてのエネルギーが半導体のバンドギャップを超えていなくても、一部の電子は伝導帯準位を超えるエネルギーを持ち得る。温度差不要の熱発電技術の幾つかは、この熱励起された電子を取り出すことで、熱から仕事を取り出せるとしている。ただし、この取り出し方には工夫が必要で、平衡状態にある半導体のpn接合では、起電力がほとんど得られない。一般の太陽電池の場合は、光という強いエネルギーが外部から半導体に照射されることで非平衡状態になり、バイアス電圧がなくても起電力が高まる。(図:(a)はWikipediaの図を基に日経クロステックが作成、(b)は日経クロステック)
[画像のクリックで拡大表示]

 仮に、マクスウェルの悪魔やブラウン・ラチェットの議論の延長で温度差なしの熱発電技術が実現不可能ということになると、別の疑問も出てくる。温度差なしの熱発電技術の多くは、無線通信技術や太陽電池技術と“地続き”であるからだ。温度差なしの熱発電が不可能であれば、太陽電池がなぜ発電できるのかも分からなくなる。

システムは平衡状態ではない

 解決の糸口になるのはおそらく発電システムの「非平衡状態」、あるいは想定するシステムの範囲の理解だろう。今回の温度差なしの熱発電技術を開発した研究者自身も、現時点で論理的な筋道を明確につけられてはいないものの、発電システムをその外界も含めて考えれば、熱力学第2法則などには反していないはずだとする。

 まず、平衡状態は、発電システムの温度など各種の状態が定常状態にあり、しかもシステムと外界との間でのエネルギーやエントロピーのやり取りが実質的に停止している状態を指す。逆に、非平衡状態とは平衡状態ではない状態で、エネルギーやエントロピーがシステムと外界との間で流れ続けている状態である。

 実は太陽電池も平衡状態では、発電できない。太陽電池に使われている半導体のpn接合は、平衡状態で電子とホールを電極から取り出そうとしても起電力が生じないのである。一般に加熱するだけではその状況は変わらず、強い光が照射されてはじめて平衡状態が崩れ、バイアス電圧を印可した場合と同様に、電極の両端に起電力が生じる。これは「擬フェルミ準位」と呼ばれている。

 東京工業大学 准教授の松下祥子氏によると、増感型熱利用発電素子(STC)の場合は、Cuイオンの酸化還元反応機構がその非平衡状態を作り出しているのではないかという。「化学的反応では反応系と溶媒との間に必ずエネルギーなどのやり取りが発生する」(松下氏)。このために、無機の半導体では擬フェルミ準位にならないような弱い光や熱でも、色素増感型太陽電池やSTCでは発電が可能になるという。「生物内部だけを見るとエントロピーが減る非平衡状態にあるのに似ている」(松下氏)。

 九州大学 教授の宗藤伸治氏も、「(無機の半導体での温度差不要の)発電システムからはおそらくエントロピーの外界への流出が激しく起こっているはずだ。実際、500℃で発電といっても、熱を外から与え続けないとその温度を維持できない」とする。逆にいえば、外界も含めたトータルなシステムでは平衡状態が回復し、エントロピーは減らないはずだとする。

 米University of Arkansasでグラフェンを介した熱発電素子を開発したPaul Thibado氏の見解も実質的には同じだ。Thibado氏は、発電素子自体は平衡状態ではないが、熱によるブラウン運動やグラフェンの振動、そして回路上の負荷抵抗に流れる電気のジュール熱などを全部含めると平衡状態が回復する、と論文5)で述べている。ブラウン運動から仕事を引き出しているのは確かだが、それでいて「マクスウェルの悪魔を持ち出す必要はなく、熱力学第2法則は破っていない」(Thibado氏)という。