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植物ではないあの生物がヒント

 ところで、植物の光合成をヒントにした技術、具体的には、太陽光のエネルギーとH2Oなどを基にH2を生産、さらにはそのH2とCO2を基に有用な有機材料に変換する技術は一般に「人工光合成」と呼ばれる(図3)。今回の技術も一見、そのカテゴリーに入りそうに思える。太陽光とH2Oを使う点は同じだからだ。

図3 人工光合成とは別の未踏の技術
図3 人工光合成とは別の未踏の技術
人工光合成と今回の技術の関係を示した。空気中のN2をNH3などに変換する空中窒素固定は、植物にはできず、マメ科の植物の根などに付く根粒菌や甲虫の腸内細菌、一部のシアノバクテリアだけができる。西林研では、この空中窒素固定をほぼ再現し、しかも人工光合成のように、太陽光をエネルギー源とすることにメドを付けた(出所:日経クロステック、写真:根粒菌はWikipedia、甲虫は日経クロステック)
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 しかし、決定的な違いがある。今回の技術の最大のポイントである空気中のN2をNH3に変換することは、植物にはできない点だ。このため、植物の多くは、土中のNH3(正確にはアンモニウムイオンNH4)を根から取り入れて、それを基にアミノ酸などを合成する。ほとんどの植物の栽培に窒素肥料が必要なのもこうした理由による。

 一方、今回の空気中のN2を常温常圧の環境でNH3に変える機能を備える生物も存在する。空中窒素固定菌などと呼ばれる一部のバクテリアだ。

 “畑の肉”とも呼ばれる大豆などマメ科の植物やサツマイモなどは、やせた土地でもよく育成し、N2をNH3に変換する機能を備えているように思える。しかし、その機能を実際に担っているのは、それらの根などに共生する空中窒素固定菌である。特に、「根粒菌」ともよばれる。

 空中窒素固定菌を利用して成長する動物もいる。クワガタやカブトムシなどの甲虫の幼虫である。甲虫の固い外皮は、まさに空中窒素固定菌が作り出した、キチン質と呼ばれる窒素を含む固い多糖類でできていると考えられている。

 今回の技術は、植物だけではなく、これら空中窒素固定菌の機能をヒントにした技術といえる。

そのまま再現では利点がない

 このうち根粒菌については、これまで農業系の研究者を中心にした数十年の研究実績があり、「ニトロゲナーゼ」と呼ばれる、複雑なタンパク質から成る酵素がその空中窒素固定機能を有していることが分かっている(図4)。

図4 生体での反応よりはるかに省エネ
図4 生体での反応よりはるかに省エネ
根粒菌などが空中窒素固定に用いているタンパク質「ニトロゲナーゼ」の構造(a)。その中で、N2の3重結合を切る役割は、FeMo補因子(FeMoco)と呼ばれる鉄(Fe)とモリブデン(Mo)と硫黄(S)などで構成する分子が担っている。ただし、この生体反応は、ATPという生体エネルギーキャリアをNH31mol当たり8molも必要とし、エネルギー収支上、効率が低い(i)。西林研は2019年には、N2とH2OからNH3を造る技術を発表したが、これには、ヨウ化サマリウム(SmI2)の化学エネルギーを消費してしまう(ii)。しかも、やはりエネルギー効率は高くない。一方、今回の手法(iv)は、光のエネルギーだけで反応が進み、反応の前後で失われるエネルギーがない。ただし、現状では水素源にはジヒドロアクリジンを用いている。近い将来、西林研は水素源にH2Oを用いる計画だという(出所:(a)の上はWikipedia、下は京都大学、(b)は西林研の資料を基に日経クロステックが作成)
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 ただし、その機能が詳しく分かってきたのは、比較的最近だ。ニトロゲナーゼの一部の分子が触媒活性を持つことが知られるようになったのが1992年。それが、鉄(Fe)とモリブデン(Mo)と硫黄(S)が組み合わさった「FeMo補因子(FeMo cofactor:FeMoco)」と呼ばれる分子などであることが確定的になったのが2011年という具合である1)

 現時点では、このFeMocoが、特にN2の3重結合を切る役割を果たしていることや、生体内の“エネルギー通貨”ともいわれる「ATP(アデノシン三リン酸)」をエネルギー源にして、NH3を合成していることも分かっている。

 ただし、それらの知見が得られるにつれて、生体内での空中窒素固定機能をそのまま再現してもハーバーボッシュ法に代わるような、NH3の工業的な生産技術にはなり得ないことも分かってきた。

 その理由は大きく3つある。(1)複雑なニトロゲナーゼ全体の合成が困難、(2)FeMocoが空気中の酸素(O2)に非常に弱い、(3)NH3分子1個当たり8個のATPが必要と非常に“高額”で、エネルギーを浪費する─である。

 (3)について補足すると、反応自体は常温常圧で進むものの、熱損失以外のエネルギー損失が、ハーバーボッシュ法での損失をはるかに超えて大きい。植物の光合成が太陽光の波長帯の一部しか利用していないことや、足を使った移動が、車輪よりもはるかにエネルギー効率が低いことと同様、生物の仕組みが常に最適解とは限らないことの例になっている。