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触媒の耐性は8回から6万回に

 東京大学 西林氏の研究室では、この(1)の複雑さは回避しながら、(2)や(3)の課題を解決してハーバーボッシュ法に代わる、常温常圧でのNH3生産の実現に取り組んでいる。

 同研究室はまず、FeMocoに代わる、繰り返し耐性の高い分子触媒を化学的に合成する研究を始めた。2003年に米Massachusetts Institute of Technology(MIT)が発表した触媒は8回しか繰り返し利用できなかった。一方、西林研は2011年にFeMocoと同様、Moを含む分子触媒を独自に開発し、Mo原子1個当たりで12回利用できることを確認した。

 その後の研究で、西林氏の研究室は2017年に開発した触媒で、利用可能回数を230回と大きく伸ばした2)。さらに2019年には、わずかな組成の変更で最大4350回と飛躍的に伸ばした3)。これは「それまでの触媒の10倍で、工業的に使える水準」(西林氏)だったという。しかも、N2とH2Oから、常温常圧でNH3を合成することに成功した。

 さらに西林研究室はごく最近、この触媒の誘導体で、6万回の繰り返し利用が可能なことを確認したとする。近く、論文として発表するもようだ。こうした触媒の性能の高さは、研究開発の競争相手にも評価されてきており、「最近は、ライバルが我々の触媒を使って実験を始め出した」(西林氏)。誇らしい半面、ライバルに次々と成果を出される可能性があり、のんびりしていられなくなったという。

N2の分離にエネルギー供給は不要

 ではなぜ、この触媒では常温常圧で反応が進むのか。西林研究室とこの共同研究を進める九州大学 先導物質化学研究所 教授の吉澤一成氏の研究室は、この触媒の機能を第一原理計算(密度汎関数理論、DFT)を用いて検証した。その結果、2つの触媒中の各MoがN2を挟み込むように配位し、N2の3重結合を構成している電子をMo側に移動させ、最後にはN2の結合を切ってしまうことが分かってきたという(図5)。

図5 N<sub>2</sub>の3重結合は外部からのエネルギーなしで切断
図5 N2の3重結合は外部からのエネルギーなしで切断
N2の3重結合を切る触媒について、西林研と共同研究を進める九州大学 教授の 吉澤一成氏の研究室が第一原理計算(DFT)を用いて推定した素過程の様子。触媒2分子の2つのMoがN2をはさみ、3重結合の電子がMo側に段階的に移ることでN2が分離する。この反応は室温以上であれば、外部からエネルギー供給がなくても進む(出所:西林研の資料を基に日経クロステックが作成)
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 この反応の中間状態のエネルギー、つまり活性化エネルギーは12k~35kcal/molで、触媒なしに高温環境下でN2の3重結合を切るエネルギー約220kcal/molより大幅に小さい。しかも、反応の最終生成物のエネルギーが低いため、全体としては外部からエネルギーを供給しなくても、発エルゴン反応で自然に反応が進むようだ。

発エルゴン反応=化学反応の前後で、ギブスエネルギーGが減少する反応。いわゆる“発熱反応”にエントロピーの出入りを考慮した拡張概念である。発エルゴン反応の場合、外部からエネルギーを供給しなくても、自然に反応が進む。吸熱反応の拡張は、吸エルゴン反応と呼ぶ。

空気と水と電力でNH3を生産へ

 西林研究室の2019年時点の成果には、エネルギー源とその利用効率という点で課題が残っている。具体的には、この反応では、N2の分離自体は常温常圧かつ発エルゴン反応で進むものの、H2Oを還元してHを取り出す反応にエネルギーが必要となる。そして、そのエネルギー源としてヨウ化サマリウム(SmI2)を用いているのである。

 言い換えると、このSmI2は、現時点では触媒ではなく、反応で消費されてしまう。つまり、NH3を量産するには、まずSmI2を量産する必要がある。その場合、ATPの場合ほどではないものの、反応の前後でのエネルギー損失が大きくなってしまう。

 「現在、SmI2の反応生成物を電力でSmI2に戻す触媒の研究開発を進めている」(西林氏)。これが成功すれば、N2とH2Oと電力でNH3を生産することができるようになる注1)

注1)この技術開発は2022年1月に、新エネルギー・産業技術総合開発機構(NEDO)の「グリーンイノベーション基金」に基づく助成プロジェクトの1つとして採択された。出光興産が幹事企業となって、東京大学や東京工業大学、大阪大学、九州大学、日産化学、産業技術総合研究所などが参加している。