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2001年に開催された世界陸上競技選手権大会の400mハードルで、トラック競技として日本人初のメダルを獲得した為末大氏。現在は会社経営や執筆活動の他に、スマートシューズの開発に関わるなどスポーツテックにも詳しい。アスリートの立場から見たスポーツテックのインパクトや未来を聞いた。(聞き手は内田 泰、野々村洸、東将大)

(写真:加藤 康)
(写真:加藤 康)
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近年、トップアスリートの世界ではテクノロジーの導入が急速に進み、パフォーマンスや生体データなどのトラッキング(追跡)が一般化しています。為末さんの現役時代と比較して、何が大きく変わったと思いますか。

 大きな違いは、IoT(Internet of Things)の普及によって、従来は実験室でないと計測できないことが競技場というリアルの場でデータを取れるようになったことです。やはり実験室と競技場では、取れるデータの質が異なります。例えばサッカーのドリブルを実験室でする場合、データはビーコンで取得するので、フィールドの大きさはせいぜい15m四方です。しかし、実際の試合では40m先にも敵がいたりします。メンタルも含め状況が変わってきます。スポーツの世界には、選手などが抱いているイメージと事実が異なることがよくあります。例えば100m走で、「後半、カール・ルイスが伸びました」というテレビのコメントを聞いたことがある方も多いと思います。しかし、実際にはカール・ルイスもウサイン・ボルトも後半のスピードは低下しています。他の選手がもっと低下しているので、相対的に伸びているように見えるだけです。100m走では最高速度におよそ60m地点で達します。60m地点までスピードを上げていくには、地面を強く踏んでいけばいいのですが、後半にスピードが落ちているのに強く踏み続けていると足が後ろに流れ始めます。つまり、後半は足のピッチを高める走り方をした方がスピード低下を抑えられます。こうしたことはトップ選手であれば競技場での分析でわかっていましたが、最近ではIoTを活用して誰もが足の動きをすぐに分析できます。“直感的な勘違い”を科学がすぐに正していける部分が大きいと感じています。

 一方で、難しい部分も出てきています。私の現役時代は生体データのようなものはまだ取れなかったのですが、現在では血液など体内の分析もできます。アスリートに関するかなりのデータを取れるようになるなかで、「どのデータが重要なのか」という問題が大きくなっています。

アスリートの膨大なデータを取得できるようになった今、次の大きな挑戦はどの分野になるのでしょうか。

 おそらく、最後の未知領域は「ゾーン」(究極の集中状態)でしょう。五輪のような大舞台で、ものすごく集中して高いパフォーマンスを発揮する選手には一体何が起きているのか。この解明は大きなテーマだと思います。これに近い実験には、ゲームに集中しているプロゲーマーの脳活動を調べたものがあります。ゲーマーは他の競技と異なり頭部が固定されても、さほどパフォーマンスに支障がないためです。そのデータからは、ゾーンに入った状態と、ぼーっとしている状態の脳活動が近いことが分かったそうです。ただし、理由はよく分かっていません。

為末さんは現役時代にゾーンを経験していると思いますが、どのような感じなのでしょうか。

 この話題に関しては、後付けで、パフォーマンスが良かったときの状態を脳が勝手に解釈している可能性はあります。ただ、主観的にはいくつかの共通点があって、まず、時間感覚が変容します。つまり、時間が長く、もしくは短く感じますが、陸上の場合は短いパターンが多いです。球技の場合は、ボールや相手の動きがゆっくり見えたりします。もう1つは音の感覚の変容です。相手のボールを蹴る音がすごく大きく聞こえたりします。私の解釈では、普段はそれ以外に振り分けている脳のリソースを競技に重要な部分に集中させる、つまり「脳のリソース配分の偏り」がゾーンではないかというものです。

 私が世界陸上で最初にメダルを獲得したレースの際ですが、始めは体が勝手に動き出して、だんだん周囲の歓声が小さくなり、自分の足音だけが大きく聞こえました。あとは動いている体を自分が後追いしているような感じで、約300mの地点で自分が2番目ぐらいにいたので一生懸命がんばった、というような感覚です(銅メダルを獲得)。

もし自分が意図的にゾーンの状態を作り出せるようになったら、社会に大きなインパクトを与えそうです。

 その通りですが、私は意図的にゾーンに入れるかについては懐疑的です。ゾーンに入るのは寝入る瞬間に似ていて、この枕や布団はよく眠れるとか、お風呂は就寝の2時間前までに入るなどの準備はできますが、入眠は意図的なものではありません。つまり、準備までが私たちができること、再現性があることだと考えています。

為末さんご自身は、緊張した時にそれを抑える方法論をお持ちでしたか。

 緊張は頭の中で起きる出来事なんですが、それを直接自分でコントロールしようと思ってもうまくいきません。できることは、ゆっくり話す、声を低くする、自分の肩が上がっているのを下げるなど、身体や動作を制御した方が再現性がありますし、うまくいくと思います。

為末氏が経営するDeportare Partnersが、今後の事業展開として計画する「Deportare Running Clinic」のイメージ。主にスプリント能力の向上を目的に、1カ月間のランニングクリニックを提供する。写真は、為末氏が館長を務める、新豊洲Brilliaランニングスタジアムで撮影。(写真:Kensaku Seki)
為末氏が経営するDeportare Partnersが、今後の事業展開として計画する「Deportare Running Clinic」のイメージ。主にスプリント能力の向上を目的に、1カ月間のランニングクリニックを提供する。写真は、為末氏が館長を務める、新豊洲Brilliaランニングスタジアムで撮影。(写真:Kensaku Seki)
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