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イジングマシンの性能向上と多様化が止まらない。まだ新しい技術だけにその技術開発内容は各社各様である。ただし、変数の多い問題に対処するための規模拡張性を高めることを重視する点では共通する。求解速度や精度を大幅に高める工夫をこらす例もあり、イジングマシンの伸びシロはまだまだ大きい。各種イジングマシンの仕組みや開発状況を紹介する。

 イジングマシンの基になっている「イジング(Ising)モデル」は、磁性体材料中の電子スピンの動きをある程度単純化(モデル化)して材料のふるまいを議論するためにドイツ出身の研究者Ernst Ising氏らが提唱した物理学上のモデルである。

Ernst Ising氏=ドイツ生まれで1947年に米国に移住した研究者(1900~1998年)。名前は日本やドイツでは「イジング」と呼ばれることが多いが、英語では「アイジング」と発音することも多い。

 ただ、比較的早い時期にそれが組合せ最適化問題を解く上でも有用であることが知られるようになり、それを古典物理学の範囲で再現したアルゴリズム「シミュレーテッドアニーリング(焼きなまし法、SA)」というソルバー(解法)が1983年に開発された。SAを動作させる“計算機”全般が、イジングマシンとも呼ばれる(表1)。

表1 主なイジングマシンの比較
(初代機の開発順、大学や研究機関で研究開発中のものは除く)
開発元 D-Wave Systems 富士通 日立製作所 東芝 NEC フィックスターズ
マシン名 Advantage デジタルアニーラ(DA) CMOSアニーリング(CA) シミュレーテッド分岐マシン(SBM) なし 超電導量子アニーリングマシン Amplify AE
プロセッサー 専用IC 専用IC+汎用機 専用IC、FPGA GPU FPGA、GPU 汎用ベクトルプロセッサー 専用IC
(開発中)
GPU
求解方式 QA 一部並列化したSA SA MA SB 独自SA*2 QA 並列化したSA
最大ビット数 約5000
(ハイブリッドモードでは100万)
8192
(ハイブリッドモードでは約100万*1
14.4万 10万 100万以上 10万*3 4 10万以上
パラメーターの階調 アナログ
(5ビット程度)
64ビット 3ビット 2~32ビット 未公表 未定 32または64ビット
スピン間結合 疎結合
(キメラ、ペガサス)
全結合(100万ビットの場合を含む) 疎結合
(キング)
全結合 全結合 全結合 疎結合
(埋め込みで全結合化)
全結合
(6万5536ビット)
*1 ハイブリッドモードで10万ビットのDAマシンを10台相互接続して実現
*2 制約を考慮したシミュレーテッドアニーリング
*3 複数マシンを連携して大規模化させる技術も開発中
MA:モーメンタムアニーリング  QA:量子アニーリング  SA:シミュレーテッドアニーリング

 現在はその“量子力学版”もある。1998年に東京工業大学の大学院生(現在はデンソー)だった門脇正史氏と教授の西森秀稔氏が、SAより高速で高精度の解を期待できる「横磁場イジングモデルの量子アニーリング」という手法を提唱した。するとその翌年にその実用化を目指すベンチャーであるカナダD-Wave Systemsが創業し、2011年にその量子アニーリング(QA)マシンを発売した(詳細は後述)。

 その後、米MicrosoftがD-Waveの後を追って小規模なQAマシンを開発。一方、富士通、日立製作所などはSAを専用回路に実装して求解の高速化を目指したイジングマシンを開発してQAマシンに対抗。NTTなどは光の量子的なふるまいを期待したマシン、東芝もSAを独自に改良したマシンを開発した。最近は、MicrosoftがSAを同社のクラウドコンピューターである「Azure」に独自に実装した。東京工業大学や産業技術総合研究所、さらには門脇氏擁するデンソーなども参戦し、イジングマシンの種類が急速に増えている。

計算とは別の原理で求解

 イジングモデルの特徴は、原理上いわゆる計算をまったくせず、一種のアナログな物理学実験によって解が求まってしまう点だ(図1)。

図1 いわゆる「計算」はしていない
図1 いわゆる「計算」はしていない
量子アニーリングを基にイジングモデルの求解の仕組みや手順を示した。イジングモデルは、物理学の「スピン」を量子ビットや古典コンピューターの回路で模したものを多数並べた上で、温度を下げ、基底状態の各スピンの状態を「解」とする(a)。いわゆる「計算」はしておらず、狭義のコンピューターには当てはまらない。これと多くの組合せ最適化問題がほぼ等価であるため、解きたい問題をイジングモデルに変換して、得た解を逆変換すれば、それが問題の解となる。(出所:日経クロステック)
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 イジングモデルは、微小な棒磁石ともいえるスピンを格子状に並べたモデルで、“縦磁場”とも呼ばれる外部磁場hiとスピン間の相互作用の強さJijを決めた後、“系の温度”に相当するパラメーターの値を次第に下げていくと、その条件でのスピンの総エネルギーが最も低い「基底状態」に自然に収まると考えられている注1)

注1)この温度をゆっくり下げて1つの状態に収まっていく様子が「アニーリング(焼きなまし)」と呼ばれる理由である。

 このモデルは、ちょうど「NP完全」と呼ばれるタイプの組合せ最適化問題とほぼ等価であることが分かっている。このため、解きたい組合せ最適化問題をまずイジングモデル上のhiJijの選択に変換し、その解を組合せ最適化問題に再変換すれば多くの場合、所望の解が得られるのである。

偽の解に捕まりやすい

 ただし、落とし穴がある。このエネルギーに相当する量は、各スピンの向きを変えるにつれて大きく変わる。イジングマシンの場合、本当の基底状態ではなく局所解と呼ばれる偽の基底状態に状態が収まってしまう可能性を排除できない(図2)。

図2 QAとSAの違いはあまり大きくない
図2 QAとSAの違いはあまり大きくない
量子アニーリング(QA)とシミュレーテッドアニーリング(SA)との違いを示した。SAでは、一度局所解に捕まると、一般にはそこから抜け出るのが容易ではない。個別の実装では、温度を再び上げるなどの操作で、局所解に捕まりにくくしている例が多い。一方、QAでは、ポテンシャルの壁を量子トンネリングで抜けられるため、局所解に比較的捕まりにくい。ただし、正しい解(大域最適解)であることを保証するには無限の時間をかける必要がある。現実には、量子ビットの寿命が非常に短いためわずかな時間しか使えず、やはり正しい解は保証されない。(出所:日経クロステック)
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 ここまではQAでもSAでも同じだ。両者の違いは、D-WaveのQAが疑似スピンとして超伝導量子干渉計(SQUID)を用いた量子ビットであるのに対して、SAでは電子回路でスピンの動きを模している点。SAには原則、エネルギーの凹凸の曲線(ポテンシャルの壁)を通り抜ける「トンネリング」がない一方で、QAではそれが起こっているとも考えられている。