日産自動車のパワートレーン「e-POWER」は、エンジンを発電専用で使いながらモーター駆動で走る。前例のない開発は、行き詰まりと方向転換の連続だった。エンジンの発電タイミングを制御するエネルギーマネジメント領域もその1つ。燃費向上のため、開発チームはある覚悟を迫られた。(本文は敬称略)
「ここが燃費の限界ラインです。これ以上は厳しいですよ」
e-POWERの開発でエネルギーマネジメント(以下、エネマネ)領域を担う小坂裕紀は、そう言いながらシミュレーション結果を上司に手渡した。現状の設定では、エンジン稼働時間のうち約80%を最高効率で回している。この数値が上限のはず。上司もうなずくに違いないと小坂は信じていた。
ところが、e-POWERの開発責任者でありチーフ・パワートレーン・エンジニア(Chief Powertrain Engineer:CPE)の仲田直樹は、その結果を一瞥(いちべつ)するなり小坂に突き返した。
「まだだ。もっとできるだろう」
……。数秒の沈黙が続く。あっけにとられた小坂はなかなか言葉が出てこない。燃費をこれ以上高めたら、きっと運転者に違和感を与える走りになってしまう。
小坂が懸念する違和感とは、クルマの加速タイミングと発電タイミングの違いからくる奇異な運転感覚のことだ。最高効率で稼働する時間を増やせば、低速運転なのに大きなエンジン音が響く場面が出てくる。そうなると、エンジンの音や振動と車速がかみ合わず、運転者にチグハグした印象を与えかねない。
e-POWERの開発チームが目指しているのは、運転する楽しさの再発見だ。燃費を追求するあまり快適な走行感を損なってしまっては、元も子もないではないか。
(もっとできるだろうだって? 最高効率の領域は既に80%も使っているんだぞ)
一般に、エンジンには最も効率の良い回転数とトルクが存在する。開発中のe-POWERの場合、その回転数は2375rpmで、トルクは70~80Nmだ。仲田はその最高効率で稼働させる時間を80%よりも増やせと言ってきたのだ。
(まあ、仕方がない。仲田さんがそう言うなら、設計を考え直してみよう)
小坂は数秒の沈黙の間にそんな思いを巡らせ、「やります」とだけ言葉を返した。
小坂が柔軟に方向転換できたのには訳がある。運転者の存在を過度に意識し、制約を加え過ぎていたのかもしれないと、省みたからである。長年にわたり、小坂はエンジンの補助で航続距離を延ばすレンジエクステンダーEV(電気自動車)の先行開発を担当してきた経験があった。しかし、量産車の製品開発を任されたのは、この「ノート e-POWER」が初めてだった。
快適性が重要であるのに変わりはないが、もっと自由な設計に挑戦してみたい。小坂の考えが変わった瞬間である。席に戻りパソコンの画面を見つめるその表情はどこか晴れやかだった。
幸いにも、モーターだけで車輪を駆動するシリーズハイブリッド方式は、発電に使うエンジン側の自由度が極めて高く、技術者としての腕の見せどころが多い。小坂はエンジン制御用のソフトウエアを作り直し、最高効率で稼働する時間を増やしていく道を選ぶ。
最高効率で95%稼働
まず、小坂は思い切って原則的にエンジンを常に最高効率の回転数・トルクで稼働させてみることにした。発電しないのは電池パックが満充電のときだけ。すると最高効率の稼働時間は95%と驚異的に向上し、燃費目標を悠々と達成した。瞬間燃費だけでみれば、他社を圧倒する値となった。
シミュレーション結果は良好だったものの、小坂はまだ安心できなかった。現状の設計は走行時の快適性を完全に度外視している。燃費と加速感、エンジン音・振動、これらはトレードオフの関係にある。各要素の調和こそ、エネマネの神髄だ。良しあしはシミュレーション結果からは見えてこない。
もしかすると、このエンジン制御では運転者に不快感を与えてしまうのではないか。そんな不安を抱えたまま最初の試作車が完成し、テスト運転当日を迎えることになる。試乗では、専門の評価ドライバーの他、開発者である小坂も試乗することになった。
試作車に乗り込んだ小坂は、恐る恐るハンドルを握り、アクセルを踏んだ。クルマはゆっくりと加速し、エンジン音が鳴り始めた。心配した違和感は襲ってこない。
「いける。これはいけるぞ!」
自信を抱いたのは小坂だけではない。評価ドライバーをはじめとした他の試乗者からも、「意外と良い」「お客さんの理解を得られそうだ」と肯定的な意見が相次いだ。実車の走行感覚は正確に予想することができない。小坂はエネマネの難しさと醍醐味(だいごみ)を実感することになる。