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ターボリナックスをやめた理由

なぜ、知名度も高く大手企業との提携も多かったターボリナックスをやめたのですか。

 話は少し長くなりますが、ターボリナックスの話を最初から説明しましょう。

 まず1992年にパシフィック・ハイテックという会社を、私の妻であるアイリスとともに始めました。その後、ターボリナックスという社名に変更し、ビジネスをLinuxに集中しました。最盛期には400人もの従業員がいました。東京のほか、米シリコンバレー、中国、韓国、南アメリカ、ヨーロッパ、オーストラリアにも拠点がありました。

 日本IBMと提携してターボリナックスを搭載したワークステーションを販売し、京都産業大学に採用されました。日本IBMやオラクル、NEC、富士通、デルコンピュータ、日立製作所、日本HP(ヒューレット・パッカード)、コンパックコンピュータ(当時)などとLinuxのOEM供給の契約を結びました。そうして、日本の商用Linuxのマーケットで70%以上の市場シェアを持つようになりました。

 中国科学院やアメリカのロスアラモス国立ラボラトリーなどから非常に優秀なコンピュータ・サイエンティストが次々とターボリナックスに入りました。中国で清華大学やインテルと一緒に北京でLinuxの研究所を開設し、そしてアメリカのニューメキシコ州でターボ・ラボラトリーを開設しました。障害時のフェイルオーバーが可能なエンタープライズ向けのテクノロジーも開発しました。

上場に向けた体制でビジョンを失う

 1999年から2000年にかけて、約1億ドル(約105億円)の資金をベンチャーキャピタルや企業パートナーなどから調達しました。これによって成長資金を得たはずなのですが、短期的な利益への圧力が高まりました。そして2000年にドイツ銀行が主導して、米ナスダック市場への上場を計画し、企業価値は30億ドル(約3150億円)と見積もられました。そしてベンチャーキャピタルの株主から新しい経営陣が送り込まれてきました。

 こうしてLinuxのコミュニティーやそのビジネスモデルを理解していない経営陣とそのチームになってしまいました。社内政治が持ち込まれて、重要なビジョンを失いました。結果として上場もできなかったし、市場の開拓も成長もほとんどできませんでした。

 ちょうどその頃、台湾の投資会社がターボリナックスに投資したいという話があり、私とアイリスに株の一部を売ってくれないかと言ってくれました。私はビジョンのない経営陣と一緒に仕事をし、ネガティブなエネルギーを費やすよりも、新しいことをやった方がよいと思うようになりました。

 最終的にベンチャーキャピタルの投資家と相談して、台湾の会社に一部の株を譲渡して、2000年にターボリナックスを離れることにしました。