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 民主党の鳩山由紀夫首相は国連総会での演説が各国の首脳から高く評価されるなど、予想を上回る順調な「外交デビュー」を果たしました。小沢一郎幹事長との二重権力構造を指して「小鳩政権」などとも言われていますが、鳩山氏が首相の座を射止め、権力を握って自ら動き出したことは事実です。

 鳩山氏は先日、テレビ番組のインタビューの中で「政界入りしてから首相になるまでの道のりを振り返ってみて、昔から権力欲というものはあったのですか」と問われ、最初は「いや、とにかく政治を変えて良くしたいという思いが強く、いつでも政治家を辞めてもいいという覚悟でずっとやって来ましたから、いわゆる出世欲というのはほとんどありませんでした」と答えていました。ただ、その後すぐに「そういう覚悟を持ってやってきたことが結果的に出世というか、ここまで来たことにつながったのだとすれば、そういう意味においては(権力欲が)あったと言えるのかもしれません」と付け加えていたのです。

 これは鳩山氏自身としては、「権力を握りたい」という意味での権力欲はほとんどなかったものの、「政治を変えて良くする」ためにはそれなりの権力を握ることが必要であり、「いつ政治家を辞めてもいいという覚悟」を持って臨むぐらいの方が結果として権力を高めていく可能性が大きいことも薄々は感じていたフシがあるようです。

 政治を良くするために必要悪として権力が不可欠だとしても、あからさまに権力を握りに行くようなことは差し控え、逆に潔い覚悟を持って臨んだ方が結果的に権力もついてくるという認識をある程度は持っていたということでしょう。果たしてどこまで無意識的なことだったのか、あるいは逆にどこまでしたたかだったのか。もっと言えば、どこまで“善人”なのか、逆にどこまで立ち回りが巧妙で“ワル”の側面があるのか――。

「役で立つ」から「役に立つ」

 私自身はこうした「善なのか、偽善なのか」という問題について、基本的に善と偽善を区別することはできず、「すべての善は偽善であるとともに、逆も真なりで、すべての偽善は善である」という考え方をしてきました。

 世のため、他人のために何か善を行う場合、自分の名声やカネ儲けのためという色彩が濃くて偽善の臭いがするものもあれば、純粋に私利私欲を捨てているように映るものまで様々あるでしょう。でも、それをどこかで線引きして区別することは不可能だと思います。さらに、私利私欲を捨てているように見えても、「善をなすことで自分の気分が良くなるとか、自分として満足感が得られる」ということまでも含めて考えれば、完璧に世のため、他人のためという善行はないのかもしれません。