日経BP社の出版局(書籍などを担当)にいるK氏が,発行直前の新刊書を送ってくれた。筑波大学 助教授の桑嶋健一氏が執筆した『不確実性のマネジメント~新薬創出のR&Dの「解」』という本である。筆者への伝言として「クスリのものづくりにもマネジメントがあるんだ,という本を作ってみました」とある。
桑嶋氏の論文は,以前に機能材料の競争力を考えるうえで参考にさせていただいているが(本コラムの以前の記事),今回の本は畑違いの医薬品だ。筆者は昔,医師向けの雑誌である『日経メディカル』の記者をしていたことがあるので,医療用薬品の世界は個人的には懐かしいのだが,このコラムの読者である製造業の方々にとってはあまり関係ないかな,と思いながらこの土曜日に読み始めた。ところがどっこい,分野を超えた面白さに一気に読了した。
この本を読んで筆者が最も考えされられたのが,同書のテーマである「研究開発マネジメント」からは若干外れるが,研究開発の「独創性」とは一体何だろうか,という根源的な問いである。
個人の執念と運が左右する世界
まず,冒頭部分で出てくる新薬開発の二つのストーリーが面白い。三共の高脂血症治療薬「メバロチン」とエーザイのアルツハイマー治療薬「アリセプト」である。医薬品開発といえば,スーパーコンピュータか何かを使ってシステマチックに進めているのかと想像していたのだが,これを読むと大分違うようだ。そのポイントは第一に,個人のこだわりや執念で物事が進む泥臭いストーリーであること。第二に,運と偶然によって左右される曖昧(あいまい)な世界だということである。
まず前者の「個人の執念」についてだが,メバロチンには遠藤章氏,アリセプトには杉本八郎氏という,すごいプロジェクトリーダーがいた。彼らのどこがすごいのか。共通するのはプロジェクトがうまく行かなくて会社から中止の命令が下ったときに,あきらめなかった点である。
例えば,三共の遠藤氏らのチームは,6000もの微生物をスクリーニングして,3年かけてようやく試験管内でコレステロール合成阻害活性のある化合物を見つけた。さあこれからだ,というときに,ラットを使った動物実験で全く効果が表れず,開発の中止が決定する。しかし,遠藤氏はどうしてもあきらめきれず,周囲を説得して,細々と研究を続けたのである。
「研究を継続できなければ会社を辞めます」
エーザイの杉本氏らのケースでも一度は中止の決定が下る。杉本氏らは,アルツハイマーの原因として神経伝達物質のアセチルコリンが減少するという「コリン仮説」に基づいて開発を進めていた。具体的には,アセチルコリンを分解してしまう酵素の働きを阻害する化合物を開発することで,同物質の減少を防ごうというものである。
土日もお盆も正月もなく,夜も徹して合成に明け暮れるなかで,ついに別の動脈硬化の治療薬として合成された化合物の一つに分解酵素の阻害作用が発見される。しかし,喜びもつかの間,発見した化合物の生体利用率(投与された薬が肝臓で分解されずに患部にたどりつく割合)が低いことが判明してしまう。これは医薬品にとって致命的である。そして中止命令が下るのだが,杉本氏はあきらめない。研究の継続が認められなければ会社を辞める覚悟で上司を説得し,ついに1年だけという期限付きで継続が認められたのである。
こうして二人が中止命令に逆らってまで研究を続けたおかげで,画期的な二つの新薬がお蔵入りにならずに済んだのであるが,ではブレークスルーはどのように達成されたのか。それは,言ってしまえばミもフタもないのだが,「運と偶然」だったのである。
飲み屋で計画,上司に内緒で実行
三共の遠藤氏は,会社近くの飲み屋で一杯やっているときに,たまたまニワトリで農薬の実験をしている会社の同僚と出会う。その同僚がニワトリを処分すると聞いて,処分するくらいならその前にニワトリに遠藤氏が合成した化合物を投与できないか,という話になった。本来ならば双方の上司の許可を得たりして面倒な手続きが必要なのだが,そんな時間はない。二人は内緒で試験してしまう。結果的には,ニワトリに劇的なコレステロール低減効果が出たのである。
確信を得た二人は,再び会社に内緒で動き,ビーグル犬でも高い効果を得られることを確かめた。こうした成果を基に社内を説得し,ようやく正式なプロジェクトとして認められ,臨床試験を経て,発売へと進んだのである。
一方のエーザイの杉本氏は,1年という限られた時間の中で,発見した化合物の誘導体を作って生体利用率を高める作業をひたすら繰り返していた。あるとき,合成研究者が評価研究者に依頼する際に,目的化合物のほかに,たまたま大量に合成して余っていた「中間体」についても「ダメもと」で評価を頼んだところ,その中間体の方に高い活性が認められたのである。この中間体をベースにして,画期的治療薬「アリセプト」が誕生する。