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きっかけは,貴金属不足

 ところが,そうやってどんどん貴金属を払っていたら,足りなくなってしまった。このあたりの説は,元早稲田大学教授で国際日本文化研究センター教授の川勝平太氏の『富国有徳論』(中公文庫)という本の受け売りですが,日本と西ヨーロッパで経済文明が発達したきっかけは,対価として払っていた貴金属や銅が足りなくなって危機感が生まれたことから,「もの」を自給しようとしたことだということです。つまり,生産性を上げる「生産革命」を起こしたわけで,これが「ものづくり」の起源だと言えそうです。

 こうして日本と西ヨーロッパは同時期に自給生産のために生産革命を起こしたのですが,やり方は違っていました。西ヨーロッパでは,旧大陸と新大陸を合わせた広大なフロンティアを開拓していきましたが,土地に対して労働力が少ないので,労働生産性を上げることが課題でした。「必要は発明の母」ということで蒸気機関が発明され,産業革命が起こって「近代世界」を形成していったわけです。

 一方で,日本は国内で自給する「鎖国システム」を選択しました。狭い土地に対して労働力を大量に投入して土地の生産性を上げました。ここで重要なのは,働くことが善であるという考え方が生まれたことでして,そのことから「勤勉革命」と呼ばれています。

 製造業にしても技術でも,すべて西ヨーロッパを起源とするという西洋中心主義的な見方が多かった中で,西ヨーロッパと日本は同時期に同じような「生産革命」を起こしたという考え方は,京都大学名誉教授で元民族学博物館館長の梅棹忠夫氏の『文明の生態史観』(中公文庫)あたりにさかのぼる説のようですが,「日本らしさ」を考える上では重要な視点ではないかと思います。

「ものづくり力のDNA」の起源

 さて,この江戸時代の勤勉革命の中から「ものづくり力のDNA」といったものが培われていったのではないかと私は思います。私は最近,この「ものづくり力のDNA」という言葉を好んでよく使っているのですが,初めて知ったのは経済産業省が2005年11月24日に発表した『ものづくり国家戦略ビジョン』の中です。

 このビジョンでは,「江戸時代には,四季の恵みに恵まれ,自然,動物,植物と共生しようという考え方が根強く,比較的平和な時期が続いた中で日本独特の文化が醸成され,その一つとして『ものづくり力のDNA』が育まれていった」とうたっています(これに関連した以前のコラム)。

 この「ものづくりのDNA」はどのような影響をその後の日本の製造業にもたらすのかを考えていきたいと思いますが,その前に,日本はその後,明治維新で西ヨーロッパの「近代世界」への参加をあっけなく表明するわけです。これは「近代世界」が生み出す「もの」が,江戸後期から明治の方たちの眼に脅威かつ魅力的に映ったためです。蒸気機関による「黒船」もそうですし,明治の元勲たちが外遊して,西ヨーロッパの「もの」に驚いて帰ってきました。江戸時代につくってきた高度ですが一見地味な「もの」に比べて,圧倒的なエネルギーを使う派手な「もの」ですから,麻薬的な妖しさがあったといったら言い過ぎでしょうか。

 その憧れの「高エネルギータイプの『もの』」が欲しくて日本は「近代世界」に名乗りをあげて頑張るわけですが,その中でも,日本人が本来持っていた「ものづくり力のDNA」を引き出した際に競争力が上がる,という現象がおきました。「産業革命」と「勤勉革命」は異質なものではありますが,同じ生産革命ということで共通する部分もあって,うまく共鳴したということなのかもしれません。

 例えばこれは米国人統計学者のWilliam Edwards Deming(デミング)氏のおかげですが,米国ではうまくなじまなかった品質管理手法の「TQM」が日本に根付いたのは,「ものづくり力のDNA」のおかげだといわれています。

 また,これは東京大学教授の藤本隆弘氏らが言っていることですが,日本人は「ものづくりの組織能力が高い」という指摘があります。これは「効率的なオペレーションを安定的に実現していくことをたらしめる能力」と定義されていますが,5Sとか作業の標準化とか「カイゼン」とかいろいろな手法を編み出して,例えば歩留まりを100%に近づけることを可能にしました。藤本先生は,こうした能力を「戦後の資源不足下で編み出した経営手法」としていまして,江戸時代にまではさかのぼって分析していないようです。しかし背景には「ものづくり力のDNA」があるのではないか,と私は思っております。

「見えないマージン」も「ものづくり力のDNA」の賜物?

 日本人はこうした,歩留まり向上,品質向上,不良率低減といった活動をボトムアップで頑張ります。実は私は今,Tech-On!というサイトの中でコラムを連載しているのですが(注:もちろんこのコラムのことです),最近日本人ならでは仕事の進め方として「見えないマージン」というものがある,という議論をしております(これに関連した以前のコラム)。

 例えば半導体産業では,各工程の担当者が,後工程のことを考えて仕様よりも余裕のあるマージンを作り出し,それらすべてが有効に累積されて,高い歩留まり,低い不良率,高い品質をもたらす,という仕事の進め方をしています。この余分なマージンは,仕様書や作業指示書のどこを見ても,その数値は書かれていないので「見えない」というわけです。

 言われてもいないのに自発的に行う,こうした現場における改善活動は,欧米人から見ると理解しがたいことです。1980年代に日本製半導体が米国側から「ダンピングだ」と非難されたのも,無理からぬことでした。当事者にさえ「見えない」のですから,外部からは分かるはずがありません。

 では,なんでこんなことを日本人はするのでしょうか。まず,隣人に対する「気配り」をするという文化があるように思います。それと,現場の各チームが体育会系のノリで,競い合って「見えないマージン」を作り出しているということから,チームをつくってワイワイやるのが好きというか,スポーツ好きというか,お祭り好きというか,そんな気持ちを日本人は持っているということではないかと思います。ちょっと無理やりですが,江戸時代に町火消したちが組を作って争って消火活動をしたのと相通ずるものがあるのかも知れません。ということで,これも江戸時代の「ものづくり力のDNA」の賜物かと思うわけです。

 さて,ここで話は急に暗くなりますが,では,日本人が持っているこうした「ものづくり力のDNA」を活かして頑張ればいつでもどこでも成功できるのか,といえば,そうでもないことが問題なのであります。

 先ほどの半導体産業ですが,その後1990年代に入りますと韓国メーカーに抜かれ,米国メーカーも復活してきたということで,さんざんな状況に陥るわけですが,その原因の一つとして,日本メーカーには体質として「過剰品質文化」があるのではないか,という指摘があります(これに関連した以前のコラム)。

 なぜ日本人は顧客のニーズ以上に過剰に品質を作りこんでしまうのか,さまざまな理由が指摘されていますが,背景として私が最近考えていますのが,先ほどの「見えないマージン」のような現場力です。こうした現場力には,人や業務の内容ごとに方向性というかベクトルがあります。そのベクトルがそろっていれば,強大な力を発揮するわけですが,いったんベクトルがバラバラになってしまうと打ち消しあったり引っ張り合ったりと無駄の温床になってしまいます。一点豪華主義のような感じで,ある特定の工程ばかり高い品質でも,全体として製品力の強化にはつながらなくなる,そういうことではないかと思います。

 それではなぜ1980年代のDRAMでは,現場力のベクトルをそろえることができたのか。それは「回路の微細化」という大原則が存在したからだと言われています。微細化をすれば,チップ面積は小さくなって同じウエハーからたくさんのDRAMが取れ,歩留まりも上がり,1チップあたりの大容量化もできて,さらに動作の高速化も可能でした。すべてがDRAMビジネスを行う上でプラスに働きました。つまり何をつくるか(what)は明らかで,微細化の大原則に沿って各現場が個別にいかにつくるか(how)に邁進しても,各ベクトルがそろっているので合力はどんどん大きくなったというわけです。

 しかしDRAMで韓国メーカーに抜かれた後には風向きが変わりました。「DRAMの次はシステムLSIだ」ということになったのですが,システムLSIはDRAMに比べてビジネス構造が複雑で,微細化だけではうまくいきません。各顧客向けに「何をつくるか」などが大切になりました。そこで,各企業のトップが現場にビジョンを示して理解してもらい,システムLSI時代における現場のベクトルをそろえることが極めて重要だったのですが,ビジョンを示しきれなかった,というのが敗因の一つではないかと思います。

「ものづくり」と「売りづくり」のベクトルも合ってない?