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「『死の谷』は幻想である」

 少しだけ憮然として真意を聞くと,その方が思うに「死の谷」と言う言葉には,谷の向こう側にはバラ色の未来があるという無責任な楽観論の匂いがするのだという。とにかく自分はバラ色の未来を描いたのだから,あとは誰かがその谷に橋をかけてくれるだろうという,人任せの考え方を助長していると見る。つまり,橋の架かっていないような未来価値は幻想に過ぎないというのである。

 「『死の谷』じゃなければ,なかなか実用化できない状況をなんと呼んだらいいんですか?」と聞くと,この方は「『死の崖』だと思った方がよいのではないでしょうか。崖の先にバラ色の未来はなく,何もしなければ落ちて死ぬしかない。自分で崖を埋めるなり橋を架けるなりして少しずつ道を作って未来を切り拓くしかないんです」と語っていた。

 では,どのようにして未来への道を作っていったらよいのだろうか。それが分かれば世話はないという声が聞こえてきそうである。確かにここでその明確な回答を示せるほど簡単な問題ではないが,ヒントににしたいと思うのが,Tech-On!Annexの会員である円山貫氏のコメントである。同氏は,筆者が書いた前々回のコラム「製造業のプロセスはモジュラー型が基本なのか---イノベーションとQCD向上の「両立」を考える」に対して,「システム思考が成功の鍵なのだが、、」というノートを書いてくださった。このノートの中で円山氏は,イノベーションは「破壊的-システム変革型」と「漸進的-カイゼン型」の2種類に分けられるとする。

「破壊的-システム変革型」イノベーション=モジュール構造の決定

 このうち,「破壊的-システム変革型」イノベーションは,モジュラー型の製品に適したものである。パソコン,薄型テレビ,携帯電話などのデジタル機器では,デジタル化や複雑化に伴って,モジュラー化への要求が高まっている。円山氏によると,こうしたモジュラー型の製品開発で最も重要なことは「モジュール構造」を決定することであり,その担い手である「システムアーキテクト」の存在を前提にしているという。円山氏は,システムアーキテクトの仕事とは次の様なものだと書いている。

「システムアーキテクト」の仕事は,製品コンセプト(外部仕様)と技術的実現性(内部構造)の決定であり,最も大切な要素は,決断、です。ある製品コンセプトを満たす技術的解は、複数、あるいは、無数にあることが通常です。また,マーケットも不確実なので,製品コンセプトも複数ありえますから,二軸平面から,あるひとつを選択する必要があります。先端技術で唯一解だとしても,技術的不確実性の見切りが,やはり決断点となります。

 こうしていったんシステムアーキテクトがモジュール構造を決定してしまうと,各企業間の分業が可能になり,技術革新が一気に進むことになる。時には,技術革新が消費者ニーズを追い越してしまって,コモディティー化して急激な価格下落を起こす分野も出てくる。

 コモディティー化を打破するためにはどうしたらよいのだろうか。円山氏の説から考えるに,システムアーキテクトがどんどん新しいアーキテクチャ(新しいモジュール構造)を創造し,それを基にしてモジュラー型プロセスによって開発リードタイムをできるかぎり短縮して市場投入を早めることがポイントのようである。要は,コモディティー化する前に利益を出し,コモディティー化するやいなや撤退するか,また新しいアーキテクチャを作り出すという素早い対応が必要になりそうだ。

「システムアーキテクト」出でよ!

 ここで,再び「イノベーションと死の谷」論議に戻ると,この新しいアーキテクチャを創造する際に活用するのが研究開発によって生まれた「知」ということではないかと思う。つまり,研究開発の成果を実用化に結びつけて「死の谷」を越えるうえで重要なのが,「知」を基にしたモジュール構造を生み出す力ではないか,ということになる。

 その担い手がシステムアーキテクトであるが,円山氏によるとシステムアーキテクトは「神様」であり,「神様のいる世界は,破壊を織り込んだ世界」だという。イメージとしてはインドの「シヴァ神」だろうか。神様が決めた構造は,下位のモジュール単位の担当者は変えられないが,神様自身が破壊すればまったく新しいものに変革することが可能である。日本ではこうした「神様」的な存在を容認するのが難しいが,円山氏によると,組織的な権威付けによって成功しつつある企業も出てきたようだ。

「擦り合わせ型=漸進型イノベーション」→「モジュラー型=破壊的イノベーション」…のサイクル?

 一方の「漸進型イノベーション」は,擦り合わせ型の製品に向いている。自らを破壊するイノベーションはできないものの,自動車や一部の精密機器など部品間の相互調整が必要とされる場合には威力を発揮する。

 また筆者が重要だと思うのは,モジュラー型の製品であっても,技術革新が持続的に続く限り,技術革新が起こった直後にはモジュール構造を修正する必要が出てきて,その際には「擦り合わせ型=漸進型イノベーション」が求められるのではないかということだ。つまり,常に「擦り合わせ型=漸進型イノベーション」→「モジュラー型=破壊的イノベーション」→「擦り合わせ型=漸進型イノベーション」→…というサイクルがあるのではなかろうか。

 その点から考えるに,日本においては,元々持っている「擦り合わせ型」の組織能力に加えて,システムアーキテクトを育成して「モジュラー型」の要素を付け加えれば,最も理想的な組織が出来上がる,と言えるのではないだろうか。つまり,製品のモジュラー度や擦り合わせ度を勘案して臨機応変に「モジュラー型」と「擦り合わせ型」のプロセスを組み合わせるのである。「擦り合わせ型」の組織能力をゼロから磨くことに比べれば,システムアーキテクトの育成はまだしも容易ではないか…とも思えるのである。