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「見栄っ張りの中国」と「利便性重視のインド」

 乗用車の購買行動にもインドと中国では意識の違いがあると伊藤氏は言う。中国人は一般的に,前回の本コラムでも見たように高級車志向で「見栄っ張りである」(伊藤氏)。これに対して,インド人が乗用車を選択する際に最も重視するのは燃費らしい。これはガソリン価格が高いという事情もあるが,自動車に対してより実用性や利便性を重視するインド人の気質が表れているとする。

 この結果,インドではスズキの子会社であるMARUTI UDYOG社が製造する軽自動車が売れており,中国では余裕のあるものは欧米・日本メーカーの高級車を,余裕のないものは高級車に似せたローカルメーカーのクルマを購入する。

 また,インドの富裕層の考え方を示す例として伊藤氏はあるエピソードを紹介した。インドのある大手企業の社長を日本に招待した際,空港でハイヤーを用意したにもかかわらず,それを断わり,リムジンバスを使って都心にやってきたのだという。その社長は実はケタ外れの富豪であるが,「充実した公共交通網があるのになぜわざわざハイヤーを使うのか」と語ったのだという。

「文化大革命の中国」と「カースト制のインド」

 これらを聞いていて筆者は,「見栄を張ることを迫られている中国人」と「見栄を張る必要のないインド人」という違いはどこから来るのかと考え込んでしまった。前回の本コラムで述べたように,中国では文化大革命のために既存の権威や絆が破壊され,その代わりに自らのポジションを示す必要,つまり見栄を張る必要に迫られている。これに対して,インドでは「カースト制」に代表される伝統的な社会システムが一部残っていて,これによって自らのポジションが固定されているので見栄を張る必要がもともとない,ということではないかと思った。

 ちなみに講演後の質疑応答で筆者は伊藤氏にカースト制の状況について質問した。同氏は,法律的にはカースト制は既に廃止されているが,社会的には日本人が見ただけでは分からないところで,厳然として存在しているのだという。ただし,大手の自動車メーカーやIT系企業では,カースト制にまったくとらわれない人事を採用し始めており,徐々にだが実質的な廃止の方向に向かってはいるとのことだった。

 先ほどインドには,「急激に変わっている部分」と「変わらない部分」があると述べたが,カースト制が「変わらない(変えられない)」ものだとしたら今後の経済発展を阻害するものとして立ちはだかるのではないかと筆者には思えた。

 インドには,地域共同体の助け合いの精神のような,よき社会システムの伝統がまだ残っていると聞く。「カースト制」のような悪しき伝統はなくし,相互扶助のような良き伝統だけ残すようなような取捨選択を進められるかどうかが今後のインドの発展を左右するような気がしてならない。

「経済発展重視の中国」と「経済+環境のインド」

 さて,「見栄を張らない」インド人が低価格化と利便性を追求した究極のクルマが,インドのローカル自動車メーカーであるTata Motors社が開発中の,価格25万円の「People's car」である。2500万世帯,1億人にのぼると見られる中間層(年収12万~48万ルピー=31万~126万円)を狙ったものだ。

 低価格であることや利便性を追求したという以外に,筆者が感心したのは,Tata Motors社は「People's car」の開発にあたって環境対応を方針に掲げていることであった。今後インドや中国にいる膨大な数の貧困層の方たちがクルマを持つようになると,地球環境面でも資源面でも限界が来る。インドの自動車メーカーはそうした問題にも取り組んでいるようである。

 そしてインドと中国政府が発表した自動車政策(オートポリシー)を比較してみると,その違いがはっきりすると伊藤氏は言う。中国のオートポリシーは,グローバル化が進展する中で,自動車の生産量を拡大して,中国経済の発展に貢献しようという狙いが色濃く出ているという。これに対して,インドのオートポリシーは経済発展に貢献しようという面は同じなのだが,地球環境問題に取り組む姿勢を強く出しているところが中国とは違うところだと言うのである。

 インドと中国の比較ということでは,伊藤氏は時間がなかったためか講演では言及しなかったものの,講演資料の中にあった,東京大学 ものづくり経営研究センターおなじみの「擦り合わせ・組み合わせ」のアーキテクチャー論についての記述も興味深かった。

「『擬似』オープンモジュラーの中国」と「クローズド・インテグラル型『志向』のインド」

 中国の自動車産業は,先ほど述べたような高級車志向もあって,欧米・日本のクルマをコピーすることからスタートした。その際に中国メーカーがユニークなのは,欧米・日本の部品メーカーが自動車メーカー向けに開発した専用部品をコピーして汎用部品化してカタログにまで載せ,汎用部品の組み合わせで作れるようにした点である。擦り合わせ(インテグラル)型のアーキテクチャを持った製品の専用部品を汎用部品化し,オープン型のアーキテクチャに変えているわけで「疑似オープンモジュラー型」と呼ばれている。しかし,もともと擦り合わせによって品質を上げているものを無理やりモジュラー型にしている。このため,例えばあるローカル自動車メーカーでは部品の形状はコピーできても公差まではコピーできないために,組み立てラインには木槌がたくさん置いてあって,はめ合い部分を叩き込んでいるのだという(藤本隆宏著『日本のもの造り哲学』日本経済新聞社,第6章「中国との戦略的つきあい方」参照)。

 中国の自動車産業は今後,「疑似オープンモジュラー型」と呼ばれる状況から「疑似」をいかになくしていくかが問われる。すなわち,パソコンのように高度なモジュール間のインタフェースをどのように確立するのか,それが焦点となる。これが成功するかどうかには,自動車のカーエレクトロニクス化とソフトウエア化がどの程度進展するかが大きく影響してくるように思う。

 これに対してインドの自動車産業は,異なる道を歩んできた。当初,自由化以前の社会主義的な政権下で,クローズドなマーケットで地場産業を育てる政策が採られた。その後インドは自由化により,積極的に外資導入に踏み切る。そして乗用車のトップシェアはスズキの子会社となった。ただ,その一方で現在でもローカルメーカーのシェアは27.6%もある。2輪車・3輪車にいたっては48.4%にのぼる。このようにクルマのものづくりの基礎がしっかりあることが中国と違うところだ,と伊藤氏は見る。こうした独自性により,インドの産業構造は「クローズド・インテグラル型」に移行しつつあるということだ。

 しかしインドのローカルメーカーのクルマのものづくりの現場を見ると,日本レベルの「クローズド・インテグラル型」にはほど遠いようである。伊藤氏は講演で,あるローカルメーカーのプレス成形ラインの様子を写真を交えて紹介した。プレス成形ラインを取り囲むように多くのワーカーがいるが,手作業でバリ取りをしているのだという。人海戦術でバリ取りをしているために,生産台数が多くなればなるほど人が増えることになる。

「餅つき」のようなプレス成形ライン

 またある写真ではプレス成形金型の下型の上にワーカーがあぐらをかいて座ってなにやら作業をしている。その直後に上型が降りてくるが,ワーカーが慣れた様子でヒョイっと避けるのである。成形後,型が開くと再び中に入り込んで作業する。伊藤氏は,まるで餅つきの「合い取り」(水を手につけて杵つきの合間に餅を返すこと)のようだったと言う。

 ただしインドの自動車産業の向かう「方向」から見て,このような危険で前時代的な状況は早々に改善に向かうだろう。カーエレクトロニクス化やソフトウエア化の動向にもよるが,乗用車はここしばらくインテグラル型が優勢と見られる。そうなると,インドの自動車産業の実力は中国のそれをしのぐ可能性がある,ということかも知れない。

 そしてさらに思うのは,筆者が30年ほど前にインドの街角で感じた貧困層のエネルギーが「ものづくり力」に転化したとき,インドの自動車産業は大きく花開くのではないか,ということである。