金で買えない「0.1%」
さてドラマに戻ると,大空電機にTOBをしかけた鷲津は,米国本社の「レンズ部門をリストラの上,売却せよ」という指令を突然無視して,解体せずに済む計画を進め始める。理由は,むかし銀行マン時代に死なせてしまった経営者の遺族が経営する加工メーカーがこのレンズ部門の下請けとなっており,売却するとこの加工メーカーはまた破産してしまうという「日本的な理由」からであった。
このために鷲津は外資系ファンドを解雇されてしまうが,独自にファンドを立ち上げる。レンズ部門の従業員および下請け企業の従業員によるエンプロイー・バイアウト(EBO)をしかけることとし,従業員全員を解雇せずに,下請けも切らずに再建する計画を立てる。そのうえでレンズ部門のキーマンである技術者に米国企業への売却に反対しEBOに参加してもらうように説得する。「他人の金を使って見ず知らずの会社に投資するあんたたちの仕事は何もつくらないし何ら価値を生み出すわけではない。結局は金なんだろ」と言う技術者に,鷲津は「99.9%は金で決まるが,残りの0.1%はそうはいかないことをこの仕事を通じて客に学びました」と語る。その「0.1%」とは,死んだ加工メーカーの経営者がつくっていた一つのねじにまつわる思い出だ,というこれもまた「日本的な理由」が続く。
「仲間を犠牲にして希望や誇りはあるのか」
このドラマは最終回になってずいぶん「日本的な方向に振れてきたなあ」と少し拍子抜けしながら見ていると,さらに鷲津の説得を受けてEBOに参加することになったキーマンの技術者がレンズ部門の技術者たちの前でこう演説するのであった。
わたしは40年ここで働いてきました。毎日毎日レンズを磨いてきました。この工場とここの仲間たちがわたしの人生のすべてでした。皆それぞれ考えがあり,生活がある。レンダント社(買収先の米国企業)に行きたければ行けばいい。しかし,そうなると50人は残れても残りの298人はクビを切られる。仲間の犠牲のうえに新天地に行って,製品をつくる。そこに希望はあるんだろうか。誇りはあるんだろうか。
拍子抜けしながらも「仲間の犠牲のうえに…」のくだりには,ジーンと来てしまった。「選ばれた50人は現在の倍の報酬を提示され残りはクビ」,という仕打ちは認めないという日本的な仲間意識だろうか。このドラマでは,リストラされる別の事業部で部長が高給を提示される一方で人員削減の指令を受けるが,部下の猛反発にあって精神的に耐え切れずに自殺してしまうというシーンも出てくる。チームワーク良く一緒に働いてきた仲間を「切る」ことが辛いという日本的経営に人間味を感じてしまうのは,筆者も「日本的」だからだろうか…。
「ハゲタカ」を飼いならす
ところで,このドラマが3回目くらいのとき,たまたま株式市場に詳しいアナリストの方と話す機会があったので,このドラマの「現実性」について聞いてみた。すると,「細部のつじつまはともかく,70%くらいの確率で現実味はあるのではないか」ということであった。また,外資系ファンドといっても様々であり,同じ会社でも米国本社と日本法人とでは対応がかなり違うそうだ。確かに米国本社では「ハゲタカ」と呼んでもいいような過激な活動が目立つが,この手法を日本に適用してもなじまない,という認識も出てきているという。
それを聞いていて,「欧米流」のやり方を「日本流」に一部変えると共に,「日本流」の方も「欧米流」に一部変えることによって最適解を見出すことではないかと思った。その面から見ると,ドラマの最終回における鷲津の「変節」も「日本的なるもの」と「欧米的なるもの」の融合を暗示しているのかもしれない。
さらにこの方が語っていたことで印象的だったのが,今回のドラマなどを通じて,日本人の「ハゲタカ」に対する認識を改めるきっかけになればいいのでは,という指摘であった。これからは,毛嫌いするばかりではなく,むしろ「ハゲタカを利用してやろう」というくらいの気持ちを持つことが大切ではないかと言う。
「タカ」といえば,日本では元々江戸時代の大名が鷹狩をしていたように,飼いならす対象でもあった。「ハゲタカ」を飼いならすことで日本の製造業が再建する道もある,という認識を持つべき時期に来ているのかもしれない。