PR

「90%の技能と10%の技術を組み合わせる」

 科学的知識と既存のものづくりプロセスの組み合わせ,ということで筆者が思い出すのが,2年前の「日経ものづくり大賞」の授賞式(2005年11月18日)でのことである(Tech-On!の関連記事)。精密研磨事業を手がける住友金属ファインテックが,金属表面を1~5nmの誤差で平坦に研磨できる技術を開発して同大賞に輝いたのだが,これは同社が長年培ってきたシリコンの研磨技術と,産業技術総合研究所が開発した「電解砥粒研磨」を組み合わせて実現したものだという。

 授賞式後の懇親会で,同社の技術開発責任者の方にお話を聞いた。この方によると,新研磨技術を使ってプリント基板などの銅箔表面の凹凸をなくせば,銅箔の厚さがこれまで7μmが限界のところ,0.5μm厚まで薄くできるプリント基板が可能になるなど,事業化は順調に進んでいると言う。また印象的だったのが,「90%の従来技術(この場合,シリコン研磨技術)と10%の先端技術(この場合,電解砥粒研磨)を組み合わせたことです」と語っていたことだ。実は,この担当者の方は,従来技術のことを「技能」,「先端技術」」のことを「技術」とも表現していた。つまり,「技能と技術の組み合わせが大切だ」と強調されていた。

 このケースでは,従来技術(技能)の部分の比率が90%と大きいことから,同社が構築してきた精密研磨事業という「パイプ」の中に科学技術の知識を一部組み込んだ,と見ることもできる。その意味では,パイプを「拡張工事」するタイプのイノベーションと言ってもよいのかも知れないが,それでもこのケースは,科学技術部分の比率が大きい場合でも,既存のパイプを利用するというヒントを示しているように思える。つまり科学技術の知識を使った新設計情報と言う流れを既存のパイプを借りてきて流す,という方策が考えられるのではないだろうか。

現場発のノウハウが生む新たな科学的知識

 もう一つ「ものづくりの現場」ということで考えてみたいのが,現場のノウハウや暗黙知を分析することで,新たな科学的知見を生むのではないか,という視点である。

 この視点を考えるうえで面白かったのが,大日本印刷技術開発センター生産総合研究所主席研究員の黒田孝二氏が『一橋ビジネスレビュー』(2007 SPR.)に掲載した「感性とサイエンスのハーモニー---21世紀のモノづくり像を求めて」(同誌pp.76-99)という論文である。

 黒田氏はこの論文の中で,ものづくりの現場には熟練者の感性に支えられたノウハウがあるが,その多くは複雑すぎて今の科学では解明できないものだと見る。「このような属人的なテクノロジーを広く集約して人間の感性と連動して,これをさらに発展させるのが21世紀のサイエンス・イノベーションの理想的な姿ではないだろうか」(p.77)と今後のイノベーションのあり方を提唱する。

 黒田氏は具体例として印刷業界を取り上げ,属人的な技能に頼っている印刷・塗布工程を科学的に解明する試みを紹介している。インキを構成する成分はナノスケールの材料であり,この材料がプロセス中で与えたエネルギーによってどのような時間経過と道筋をたどってナノスケールからマクロ構造へと変化し,インクとしての機能を果たすかを時間軸上でリアルタイムに計測しようとしている。

 また筆者が興味深かったのは,不良品が出た際などに現場に高速度ビデオを持ち込んで,1m秒以下という高速でインキが紙に転移する現象を現場技術者に見せると,技術者はヒントをつかんで改善活動を始めるというくだりである(p.85)。黒田氏はこの挙動について,現場技術者は何らかの「手応え感」をもとに目に見えない材料挙動の仮説イメージを静止画ではなく動画で持っており,ビデオ映像から自身の仮説に自信を持った瞬間に迷いがなくなり改善活動に当たる動機付けになったと見る。つまり,科学的な知見が人間の感性をさらに磨き,判断力を高めることになる。こうした試みから,新しいヒューマン・インタフェース技術に基づくイノベーションの可能性が見えてくる。

 そして,さらに筆者が思ったのは,こうした現場から生まれた科学的知見に基づくイノベーションとは,冒頭から述べている「パイプ」の比喩に再び戻らしていただくと,元々既存の「パイプ」の中から生まれたともいえる。だとしたら,現場発の新設計情報は,既存のパイプを若干修正するだけで情報を流せる,つまりイノベーションが達成しやすい(=死の谷が越えやすい)ということが言えるのではないかと思うのである。