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 面白いのはここからだ。第1グループと同様に賞金が出ると告知された第3のグループがあり、彼らには主催者のいない個室で同じジョークを録音して聞かせる。それでも学生たちは笑ってしまったという。肝心の、へつらう相手はいないのに。調査グループは、こう結論している。「自分の地位は低いと感じると、できるだけ多くの、同じ感情を持つ相手を必要とする。それを円滑に進めるため、直接的な利益がなくてもとりあえず笑ってしまう」のだと。人は無意識に自分の状況を感じ、本能的に「へつらう」という反応を示してしてしまうようなのだ。

 「地すべり的勝利(landslide victory)」などという現象も、こうした「人の追従癖」によるものなのかと思う。オピニオン・リーダーなどに対してフォロワー的な立場に置かれている大多数の人たち、あるいは敗者の側に回ってしまいそうだと感じた人たちが、一気に世論の推す方向や勝者の側になだれ込むのである。

ネガ>ポジ

 もう一つ、これか?と思ったのが、行動経済学でいう「損した場合の心理的影響は、得したときより3倍も大きい」という人間の行動に関する法則だ。以前、あるエコノミストの方に、こう教わった。実際の経済では、古典的経済学では説明できない多くの現象が発生する。それは「人は合理的な判断が下せない」ためで、この人間的な行動原理を反映させた経済学を「行動経済学」と呼ぶ。この、人間的な習性の一つが「損得の受け止め方」の問題で、広く解釈していえば「ネガティブな出来事をポジティブな出来事より3倍深刻に受け止めてしまう」ということであるようだ。このため人は、ポジティブな出来事に期待するよりネガティブな出来事によるショックを避ける行動をとりがちで、これを行動経済学では「後悔回避」と呼ぶらしい。

 そうだとすれば、ネガティブな評価はポジティブな評価より3倍大きな反響を人々に与えるということになるだろう。つまり、善行を重ねても評価はじりじりとしか上がらないが、悪事によって評価が揺らげば、上がる速度の3倍の速度で評価が急降下するということか。何やら「行動経済学の登場によってようやくそのメカニズムが説明できるようになった」といわれるバブル崩壊に似ていなくもない。

 もちろん、こうした人間的な感情に支配される行動は、経済学でいうところの「合理的なもの」ではない。理論的に算出される、最高の結果が期待できる行為ではないのである。「後悔したくない」という感情を押し込め、ある確率で損をすることを覚悟しながら理論上もっとも期待値の大きい選択肢を選ぶのが、最善の結果を得る方法なのだろう。それを可能にするのが、話題になった本のタイトルではないけれど「鈍感力」というものなのか。常におびえ、ちょっとした批評にも「一喜十憂」する自分などには、とてもそんな力は身に付きそうもないけれど。

 さらにもう一つ。それは「ネット」というものの存在である。人の行動は、追従にしろ、後悔回避にしろ、外からの情報によって大きく左右される。「みんな怒っている」ということを知って初めて安心して自分も怒ることができるわけだし、「どうも株価はここから下落を続けるようだ」などという噂を聞くから投資家はうろたえる。その情報が、ネットの普及によって極めて速く、多くの人たちを巻き込むかたちで流通するようになった。こうなったことで、例えば「人間ならではの非合理的行動」といったものの特徴が、かつてより一層際立つようになったのではないかと思うのである。

51対49

 そんなことを書くと、「だからネットはけしからん」「規制すべき」などという反応が返ってくるかもしれない。けれど、もしもそれが「合理的な判断」であったとしても、決して世界はネットがなかった時代に後戻りできるものではない。そもそも、人間の行動が理論上は非合理的であるとしても、それには理由があるだろう。最善の解を求めるのではなく、後悔の種を避けつつ次善の解を求める。これこそが、人間に与えられた最高の知恵かもしれないのである。前回の論旨でいえば「吾唯足知(われただ足るを知る)」という禅の教えに通じるものなのかもしれないし、「そうガツガツしなくても、人間生きてさえいれば、いいこともあるさ」というゴーストの囁きなのかもしれないし。

 そんな思索にふけっているときに、たまたまネットで、尊敬してやまない西村吉雄氏の『オープンソース活動と民主主義』と題したコラムを読み、いたく感動した。氏は長く日経エレクトロニクス誌の編集長を務められ、その期間、多くの記者に薫陶を与えてこられた。私もその、「西村チルドレン」の一人である。まあ、そんな私事はともかく、少し長いが一部を引用してみたい。


不特定多数に信をおくという意味で,Web2.0は民主主義に通ずる。実際グーグル社はそのホームページで“Democracy on the web works”と宣言している。しかし、不特定多数はときに愚かで暴力的な集団と化す。「衆知でなく衆愚」「現代の魔女狩り」「グーグル八分(グーグル社の検索結果に自分のサイトを入れてもらえなくなること)は差別」。ネット上の不特定多数の振る舞いへの批判も激しい。
事典内容に関して意見が対立し、激しい書き換え合戦などがウィキペディアでもあるという。そのときには「管理者」が調整する。「良い方向に働く力が微妙に勝っている。参加する人が多ければ多いほど、より良くなると感じる」。管理者を3年以上続ける今泉誠氏はそう語る(安田朋起「ウェブが変える1」、『朝日新聞』朝刊、2006年7月27日付)。
この経験は本質的である。民主主義はもともと最良解を保証するシステムではない。尭や舜(中国の伝説的な名君)が常にいるのなら、名君にまかせたほうが良いに決まっている。けれども生身の名君は必ず老い、そして乱心する。
「ご乱心の殿よりは衆愚がまし」。これが民主主義だと私は思う。

 そうか、何だかんだと考えてきたけど「小さな一歩が大きな動きを誘発する」という現象は、考えてみれば民主主義の代表的手法である「多数決」そのものではないか、と気付いた。過半数で可決なら、51対49でも可決。けれど、わずか一人が反対に回れば否決となるのである。そして、51対49よりも51万対49万の方がいい。それがウィキペディアの教訓である。

 それをネットが実現してくれる。そして、これから先、まだまだ「ネット人口」は増えていく。そうなれば、もっともっと良くなっていく。そう思えば、私のように「鈍感力」のない、先のことが心配で心配でしょうがない人間にも、何やら光明が差してくるように思えないでもない。