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Howの部分は形式知に

 冒頭で述べたように、同じインプットからすごいアウトプットを出す名人を称賛する文化は技術者や芸術家の中に強くあります。その人のミステリアスなブラックボックス性がカリスマ性の根拠でもあり、属人的な価値なのです。それは職人文化に通ずる部分でもあり、そのこと自体はしかたのないことかもしれません。けれど、その弊害もあるように思います。

 技術畑出身のマネージャーが技術者と話をするとき、陥りがちなワナがあります。技術が解かるものだから、技術の中身に関する議論、しかも各論をやりがちです。しかし本当は、技術論ではなく、その部下がどのようにしてそのような結論に到ったのかというプロセス、つまりHowについて議論をすべきなのです。技術の内容については担当者が一番良く知っているわけで、上司がそこは信じるべきでしょう。そうではなくて、どのような論理過程を経てその案が一番よいという結論に到ったかをしつこく追及すべきなのです。

 論理的に考えるべきポイントは出尽くしていて、それが構造化されて説明できる状態、すなわち漏れなくダブりの無い構造になっているかどうか、という点に関しては技術者同士であれば畑が違っていても議論はできます。ところが実際によくあるシーンは、上司がいきなり各論を始めてしまう現象です。あちこちで聞いてきた情報についてあれこれ確認し始めて、熱いWhat論で満足してしまう。逆に自分の専門外のものであれば「信頼の置ける君の言うことだから信じた」と、ブラックボックスにしてすべてをお任せしてしまう。これもよくあるケースです。

 技術の内容に関する会話は、専門用語と専門知識の壁に阻まれているものです。だから、それがわかるもの同士ではWhat論、わからない外部とのコミュニケーションは途絶し、お任せモードになってしまう。そうなれば、R&Dのような部署はたちまち聖域になってしまうでしょう。Whatの答えを出す部分では暗黙知主導でよいかもしれません。けれど、Howの部分は形式知化することが理想形なのです。