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 そう思いついて改めてコメントを読み直すと、それは批判といった生易しいものではない。多分に感情的な拒絶であり、籔内氏に向けられた人格否定である。多くの人たちが指摘するところによれば、人がそのような拒否反応を典型的に示すのは「これまで見たこともない姿や形」「常軌を逸した能力」、すなわち異形、異能に出くわしたときだという。小説家の隆慶一郎は、「捨て童子・松平忠輝」のなかで、忠輝を武術、水術、音楽、忍術などすべてに天才的な能力を持つ異能者として描いている。それが故に「鬼」と呼ばれ、親にさえ嫌悪され捨てられるのである。

徹頭徹尾「反骨の人」

 私はかつて記事執筆のため、籔内氏にお会いし、お話も聞かせていただき、仕事の様子もつぶさに見せていただいたことがある(『ほんものの日本人』参照)。なぜ籔内氏に興味があったかというと、彼こそ「異能の人」に違いないと思ったから。取材を通じ、まさにその予感が的中したことを確信した。

 彼はいう。「芸術家というと、暗い顔をしてひたすら普遍的なものを追い求める、それが使命だからお金のことなど頓着してはいけない、といったイメージがありますよね。でも、レンブラントやミケランジェロの書簡を読むと、お金の話ばかりですよ」。ある意味、これは思い切った発言である。一般に、人々は芸術家に「高潔、孤高な存在」であることを求め、芸術家は本音を隠してでもそのイメージに沿った姿を見せたがるものだ。そんな建前だけの虚像は壊してしまってかまわない。暗にそう言っているのである。

 その反骨精神は徹底している。大学入試に際しても、人気のある絵画を選ばず彫刻を選ぶ。学校に入っても、支配的だった西洋崇拝の空気に背を向ける。当時は、ブロンズが主流で、しかも細部まできっちり彫らず、全体を塊として表現するのが近代的だといわれていた。当時の教授陣も、その論だったという。それに歯向かい、木彫を選び、しかも「美の女神は細部に宿りたまう」とうそぶき細密でしかも彩色まで施した作風を確立したのである。

 「『苦悩』のように観念的で深刻なテーマこそがエラい」という風潮にも逆らった。「楽しく」と彼はいう。しかも、作るのは「自分が喜ぶものではなく、人が喜ぶもの」。「芸術ほど時代の価値観に左右されるものはない。その価値観に鈍感な人間はそもそも表現者に向かない」などと、ファッションデザイナーのようなことをおっしゃる。いやいや油断してはならない。「人が喜ぶものを作る」ということは、時代への迎合にみえて実は時代への反逆であり、今という時代が抱く芸術家像を破壊する行為なのである。

「ゆるキャラ」でないからダメ?

 その異能者が作り出す彫刻は、どことなく異形である。好んで「童子」をモチーフに使うが、単純に愛らしいだけではない。明るさやほほえましさの中に、何か得体の知れない不気味さのようなものをしのばせている。それは、やはり童子をモチーフにしたキャラクターからも十分に感じられるだろう。