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 また番組の中で,西丸氏は,現代文明というのは,皆がイライラそわそわして心の貧困化を招き,老人を排除し,さらには人間を粗末にしてきたペラペラな文明であった,と手厳しく批判した。そのうえで,「一日,江戸時代」の試みは,なごやかで豊かな心を取り戻し,老人を大切にする社会を目指そうとするものだと主張したのである。

 さきほど,江戸時代は人間社会が出す廃棄物を自然が処理できる循環型社会であった,と述べた。この人間の出す廃棄物の量と自然の処理能力のバランスを調整する役目をしていたのが,共同体であったと考えられる。資本のグローバル化の進展は,この共同体を解体した結果,人間同士のつながりと,自然とのつながりを同時に断ち切ったのである。

「共同体」の精神をどう「回復」させるか

 しかし,人間とは,共同体における助け合いの精神(互酬性=相互扶助)なしに生きられない存在である,とも言えるのではなかろうか(これに関連した以前のコラム)。このため,人間社会の歴史とは,この精神をどのように「回復」させ,「資本」や「国家」と折り合いをつけてきたかの歴史であったとも言える。

 例えば,現在の日本や欧米諸国は国民国家(ネーション・ステート)であるが,その構成要素のうちネーションの起源は共同体の互酬性であるという指摘がある。評論家の柄谷行人氏は,『世界共和国へ』(岩波新書)という本の中で,「資本主義的な社会構成体において,農業共同体は商品経済の浸透によって解体されますが,べつのかたちで回復されるといってよいのです。それがネーションです。ネーションは,互酬的な関係を関係をベースにした『想像の共同体』です」(p.38)と書いている。

 そうした「回復」の試みを経てもなお,現代社会ではこの番組が訴えるような環境破壊や人間性の疎外は続き,深化している。その「回復」の仕方は,中途半端であったか,方向が間違っていたかのどちらかだと言わざるを得ない。

 もちろん,江戸時代は封建社会であり,不自由な階級社会である。とりわけ貧困層の状況は悲惨を極めたと言われている。前述したお化けの「ろくろ首」は,貧しい遊女が空腹のあまり油をなめたことが起源だという説もあるそうだ。また,江戸の町が循環社会であったのは貧困層が底辺で支えていたという面も大きい。人類が,生産力の向上とともに,封建制度を打破することで,得たものは大きい。それを認めたうえで,あえて失ってきたものに目を向けることが,江戸時代に学ぶ今日的意味ということかもしれない。